開拓団 (女性たちの受けた性暴力)
(女性たちの受けた性暴力(戦争と男の性)-wikipedia)
(各国の軍隊による性暴力- wikipedia)



乙女の碑
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乙女の碑(おとめのひ)は、岐阜県白川町佐久良太神社境内にある満州国における黒川開拓団の慰霊碑の一つ。1982年に建立された。当初乙女に関する説明文は無く、戦後70年以上詳細は秘密にされていたが、2013年ごろから当時ソ連兵からの性暴力を受けていた女性たちが性接待に関して証言し、碑の事実が明るみとなった2018年(平成30年)には説明文が追加された

黒川開拓団
満蒙開拓団として旧黒川村(現在の白川町)の29人の住民は1941年(昭和16年)4月吉林省陶頼昭に入植した。その翌年4月から毎年3回入植が行われ、129世帯以上600人以上が入植した陶頼昭駅にほど近い場所に本部を置いた

開拓団の引揚(「引揚者」も参照)
1945年(昭和20年)8月15日の太平洋戦争敗戦と共に暴徒化した中国人が押し寄せており、中国人やソ連兵からの虐殺略奪強姦の危険が迫っていた。黒川開拓団に隣接していた来民開拓団熊本県)と高田開拓団(広島県)は、襲撃に耐えかねて既に集団自決し全滅していた。黒川開拓団でも服毒する自決の選択に迫られていた
ここで団の幹部は、駅に駐留していたザバイカル軍第36軍のソ連兵に開拓団を守ってもらうという奇策を用い、生きて日本に帰還することを選んだ。その際に代償として、12~15名の未婚女性がソ連軍の性接待係として差し出された(証言を参照)。女性らに拒否権はなく、団幹部に強制された性暴力であったと評価されている。ソ連侵攻後、ソ連兵からの強姦などは各地で行われていたが、性接待のために女性を差し出す事例は極めてまれであった。把握されているだけでも満州では48開拓団が集団自決しているが、団員数650名中450名が日本に帰還しており、驚くべき生還率であった

接待所に設けられたベニヤ板張りの部屋に毎日数名の女性が呼ばれ、女性1人当たり4人の将校を相手に性交させられていた。部屋の外には医務室が置かれ、洗浄係(接待を受けた女性の妹など)が軍隊のうがい薬をホースで性器から子宮に入れて性病を防いでいた。また、女性たちのために風呂を用意していた。しかし、当然避妊せず毎日複数人から強姦されていたため性病発疹チフスで4名が現地で死亡している、ほか帰国後長期入院を余儀なくされた女性もいた
  接待所は開拓団内と吉林省の陶頼昭駅の2か所にあり、接待は約9か月間続いた博多港に引き上げた後、満州で強姦された女性が多く診察を受けた二日市保養所などで、中絶などの処置を受けた女性もいるとされている

碑の建立
1982年に遺族会は佐久良太神社内に碑を建立したが、『性接待』のことには触れず、乙女の碑の内容は伏せられていた。記念誌には下書き段階で性接待の内容を記していたが、最終的にその真実は除去され、「女性たちも頑張ってくれた」程度に留められていた。なお乙女の碑そのものに対し、否定的なコメントを残した被害女性もおり、必ずしも全員の意思によって建立されたものではなかった
2012年に黒川開拓団遺族会の会長となった男性(父はソ連兵に女性を案内する役割であった)は、初めて『性接待』の事実を知り、タブーとなっていた事実を碑文に残すために尽力した。遺族会が被害女性らの理解を得て、2018年11月18日に新たな碑文が完成し、除幕式が行われた

証言
戦後70年近く『性接待』の事実は秘密にされていたが、2013年に初めて接待を強いられた女性(当時89歳)が証言し公になった。戦後70年が経ち、被害女性も80代や90代になっており、最初に証言した女性も2年後に死去した。その後、他の被害女性たちも体験を証言するようになった。
何も知らされないまま接待所に連れていかれた当時17歳女性は、接待と聞いて、酒宴などの接待だと思っていた。しかし部屋には布団が並べられており、女性たちは全裸になり並んで寝かされ強姦された。の先端で女性を動かし、銃を背負ったまま強姦されたと証言した。17歳や18歳の少女は「お母さんお母さん」と泣くだけで手をつなぎながら耐えていたと証言した。一時期は中国兵を相手にすることもあった

戦後身内の団員の男性たちから受けた中傷にも女性たちは苦しめられた。接待に出てくれと頼んだ男性から「いいことしたでいいじゃないか」「(性交したところで)減るもんじゃない」と中傷されたと証言している。遺族会の間でも性接待に関する話題は避けられていたが、事実を知る男性団員などから、団員を守ったはずの女性たちが帰国後噂を立てられ中傷を受けるなどし、女性たちは事実を隠し口を固く閉ざすようになっていった。中傷を受けた女性のうちの一人は村を離れ結婚し、荒野だったひるがの高原の開拓を手伝うこととなった

被害者の一人が満蒙開拓平和記念館で証言するなどし、徐々に事実が知られるようになり、報道番組でも2017年にはNHKの「満蒙開拓団の女たち」(第54回シカゴ国際テレビ賞)、山口放送「記憶の澱」(第13回日本放送文化大賞 テレビ・グランプリ作品)などが作成され、全国に知られることとなった。2018年8月15日には朝日新聞が証言を報じた
 長期にわたって証言しなかった被害者らが、2010年代になって証言を公にし出したのは、1990年代から慰安婦問題により性被害の証言がしやすくなったこと、自らの死を意識し始めたため教訓としておきたいと考えたことが一因である、とする説が公表されている


満蒙開拓団
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満蒙開拓団とは、1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の日本の太平洋戦争敗戦時に至るまで、いわゆる旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者(満蒙開拓移民)約27万人のことをいう

概説
昭和恐慌と試験的移民期
満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を中国大陸への移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足した1936年(昭和11年)までの5年間の「試験的移民期」では年平均3000人の移民を送り出した

二・二六事件と本格的移民期
しかし、同年の二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた。同年末には、先に関東軍作成の「満州農業移民百万戸移住計画」をもとに「二十カ年百万戸送出計画」を策定した。その後の1937年(昭和12年)には、満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)の発足、1938年(昭和13年)に農林省拓務省による分村移民の開始、1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた。1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの5年間は「本格的移民期」にあたり年平均送出数は、3万5000人にのぼる。

日中戦争と移民崩壊期
日中戦争の拡大により国家総力戦体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者が激減したが、国策としての送出計画は変更されなかった
国は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした。具体的には補助金による分村開拓団・分郷開拓団の編成、義勇軍の義勇軍開拓団への編入などである。それでも、予定入植戸数(一集団の移民規模;200から300戸)に達しない「虫食い団」が続出した。「移民崩壊期」である
1940年(昭和15年)には、同和地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは統制経済政策により失業した都市勤労者からも開拓団を編成した。結局、青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したことになる。
開拓民が入植した土地はその6割が漢人朝鮮人の耕作していた既耕地を買収した農地であり、開拓地と言えない土地も少なくなかった。

ソ連参戦と終焉
太平洋戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増えるようになり、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集された。同年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡した。ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供であった。男手を欠いた開拓移民は逃避行に向かい、その過程と難民生活で約8万人が死亡した。主に収容所における伝染病感染を含む病死、戦闘、さらには移民用地を強制的に取り上げられ生活の基盤を喪っていた地元民からの襲撃、前途を悲観しての集団自決などが理由である。敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれるが、その死者20万人の4割を開拓団員が占める
自決や殺害の危機を免れ辛うじて牡丹江ハルピンに辿りついた人々は、麻袋の底をくりぬいて身に纏う避難民の姿が目立った。運よく貨車を乗り継いで、長春瀋陽にまで辿り着いた人々もいたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出した。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていった。満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占める。満州での民間人犠牲者の数は、東京大空襲広島への原爆投下沖縄戦を凌ぐ。
内地に生還した元開拓移民も、引き揚げ後も生活苦にあえぎ、多くが国内開拓地に入植したが、南アメリカへの海外移民になった者もいた
その他に約1万人の残留孤児、残留婦人が存在する。この帰還は、1972年(昭和47年)の日中国交正常化から21世紀まで続く現代的な問題である
開拓団員と義勇隊員併せて3万7000人の移民を送り出した長野県内に満蒙開拓平和記念館(同県下伊那郡阿智村)がある。同記念館は、2014年に、開拓団の生活やソ連軍侵攻後の逃避行についての聞き取り調査する活動を、中国人目撃者から聞き取る活動を行った。黒竜江省方正県大羅密村の最年長男性によると、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村まで徒歩で逃れてきたが「開拓団民はみなぼろを着て、女性は丸刈りだった。生活は苦しく、中国人に嫁いで子供を産み、何年もしてやっと帰国できた」などの体験談などを得ている


満蒙開拓移民
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満蒙開拓移民は、1931年(昭和6年)の満州事変以降、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までの期間に日本政府の国策によって推進された、満州内蒙古華北に入植した日本人移民の総称である。満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とも言われる。1932年(昭和7年)から大陸政策の要として、また昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行され、14年間で27万人が移住した

開拓移民団
満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれる方式がとられた。
満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

入植の実態
満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、満州拓殖公社がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が収容された(当時の「満州国」国土総面積の14.3%にあたる)。日本政府は、移民用地の買収にあたって国家投資をできるだけ少額ですまそうとした。1934年(昭和9年)3月、関東軍参謀長名で出された「吉林省東北部移民地買収実施要項」では、買収地価の基準を1ヘクタールあたり荒地で2円、熟地で最高20円と決めていた。当時の時価の8%から40%であった。このような低価格での強権的な土地買収は、吉林省東北部のみで行われたのではなく、満州各地で恒常的に行われた。浜北省密山県では全県の私有地の8割が移民用地として取り上げられたが、買収価格は時価の1割から2割であり、浜江省木蘭県徳栄村での移民用地の買収価格は、時価の3割から4割であった。そのうえ土地買収代金はなかなか支払われなかった。このように開拓民が入植した土地の6割は、地元中国人が耕作していた土地を強制的に買収したものであり、開拓地とは名ばかりのものであった。そのため日本人開拓団は土地侵略の先兵とみなされ、初期には反満抗日ゲリラの襲撃にあった。満州国の治安が確保されると襲撃は沈静化したが、土地の強制買収への反感は根強く残った
満洲国は、日本の本土の延長である「外地」ではなく、日本政府の承認した一国家(日本から見て「外国」)であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった(満洲国には国籍法は存在せず、満洲国籍は存在しなかった。)そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても現地人と同化しなかった。開拓民は、役場と農協を兼ねる団本部を中心に、学校、神社、医療施設、購買部を中心とする、日本人コロニーを形成しており、コロニー内で生活が完結していた。学校も民族ごとに別々に設けられていた。そのため中国人集落と接しながらも、在地社会との接触は限られていた。また、一戸あたり10町歩から20町歩の広大な農地を割り当てられたが、これを自家のみで耕作するのは困難であり、結局は中国人労働者を「苦力」として雇ったり、小作に出したりという、地主的経営にならざるを得なかった。「五族協和」が唱えられながらも、「地主ー小作関係」に民族問題が絡み合うことになり、「五族協和」は実現困難だった

満洲開拓政策基本要綱」は「第一.基本方針」「第二.基本要領」「第三.処置」の3部からなり、さらに「付属書」「参考資料」が添付されている(開拓総局 1940)。具体的な政策実施方針を定めた「基本要領」の内容は、以下の4点にまとめられる。

1. 日満両政府の責任分担を明確にするとともに、日満間の連携を維持、強化するとした。
 日本国内での業務は日本政府が、満洲国内での業務は満洲国政府が統轄する。移民入植地の行政経済機構は「原住民トノ共存共栄的関連ヲ考慮シ」満洲国制度下に融合させる(開拓総局 1940,12‑13)。行政機構は街村制によるものとし、経済機構は協同組合を結成させる。また、指導員の身分は従来の日本政府嘱託から日満両政府の嘱託に改め、移民の訓練は日本国内での訓練を日本政府が、従来は満洲拓植公社が管理していた満洲国内での訓練を満洲国政府が統括するとした。満洲開拓青年義勇隊については、日満両国の開拓関係機関合作による訓練本部を新京に置き,各機関の協議によりこれを運営するとした。さらに日満両政府がそれぞれ開拓関係行政機構の整備拡充を行って関係機関との連絡に適切な処置をなすとともに、両政府間直接の協議連絡を緊密にするとした。
2. 移民の区分と入植地域,入植形態を規定した。
 日本人移民,朝鮮人移民を開拓農民、林業、牧畜、漁業等との半農的開拓民、商、工、鉱業その他の開拓民に区分した。また中国人農民を国内開拓移動住民、開拓民移住にともなう「補導原住民」に区分した。前者は一般の中国人の国内移動、後者は日本人入植にともなう現住農民の立ち退きを指す。日本人開拓民の定着を推進するとともに、朝鮮人開拓民の移住・定着、現住農民の「補導」・移動についても積極的な助成、「補導」を行うとした。さらにこうした開拓民の入植や現住農民の移住「補導」では、満洲国協和会の活動が重視された。
3. 開拓用地の整備、利用開発、配分などに関する要領を定めている。開拓用地の整備は「未利用地主義」にもとづき国営により実施するとした。また湿地干拓, アルカリ地帯の利用、森林原野の開拓などを重点的に行うとした。これにより、満洲拓植公社の業務であった開拓用地の取得および管理が満洲国政府に移管された。4. 満洲拓植委員会の運営の規制および満鮮拓植会社の満洲拓植公社への統合を決定した。
 だし満洲拓植公社改組については意見がまとまらず、今後引き続き協議するとされた

「満洲開拓政策基本要綱」により、日本人移民政策における満洲国政府の位置づけは大きく転換した。満洲拓植委員会は存続したものの、以後日本人移民政策の基本方針決定過程では両政府間の直接協議が重視され、満洲国内の政策実施は基本的に満洲国政府に委ねられることになった
石原莞爾甘粕正彦は満蒙開拓武装移民には否定的であった点では共通するが、甘粕の場合、大型機械などを用いた産業化とは対極的な、過酷な身心鍛練を通した農本主義的・精神論的な加藤完治の“日本主義”のそれにあり、屯田兵の役割を担う開拓武装移民団には肯定的であった

戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男性の入植が困難となり、15歳から18歳ほどの少年で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。少年らは茨城県水戸の「内原訓練所」で2か月間訓練され、満州へ送られた。その後さらに満州では「満州開拓青年訓練所」にて3年間現地にて軍事訓練を受け、各地へ開拓移民として配属される。対ソ連への戦略的観点から、主にソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。

移住後の問題
入植後の不協和音からもめ事や内紛がおき、幹部の対立による離脱や構成員の反発による紛争も生じた。1940年5月28日、寧安近郊で起きた香川県出身者の開拓村の紛争事件では、憲兵が出動し11人の団員が帰国通告の処分となった。開拓移民団の中には鉱山開発やダム建設のため、開墾し入植した土地を事業者に移転させられたり引き払わされた事例もあったが、彼らの反発は関東軍によって抑えられた。 日本の開拓政策を知る一部の地元の農民には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在として反感を抱いている者が少なからずおり、団員との衝突やトラブルに発展するケースも相次ぎ、絶えることがなかった。これらの日本人移民団への反感が、反日組織の拡大につながった。そして、のちのソ連参戦時に移民団員が現地住民たちに襲撃される伏線ともなってゆく

開拓団の引き揚げ  「引揚者」、「引き揚げ」、および「戦後開拓」も参照
青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。各地の開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での感染症による病死者を出し、無事に帰国できた開拓団はなかった。また、国境を越えてきたソ連兵に捕らえられシベリアへ送られた男子入植者は、シベリア抑留者となり帰国は更に困難を極めた。
  敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を日本の各地に割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。
  このような移住用集落は戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた。また、山梨県の旧上九一色村に入植した開拓者の多くは、バブル期前後までに耕作を放棄して村外に転出し、その不動産の多くがオウム真理教に売却され、サティアンと呼ばれる宗教施設が乱立した。


戦時性暴力-wikipedia-詳しくは、以下をクリックしてください

アブグレイブ刑務所における捕虜虐待
乙女の碑
韓国軍慰安婦
スレブレニツァの虐殺
占領期日本における強姦
済州島四・三事件
ドイツ軍将兵用売春宿ドイツ収容所売春宿
日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯
日本の慰安婦
フォチャの虐殺
ベルリンの戦い
マフムーディーヤ虐殺事件

敦化事件
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敦化事件(とんかじけん)とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。日満パルプ事件とも呼称される。

背景
事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である。工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた

1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された

ソ連軍進駐
  8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった
  8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた

集団自決
8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びがあふれたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視をかいくぐり塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が敷かれている独身寮には近づくことができなかった。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた
8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった

事件後
その日のうちに女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された。その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらうなどしていたが、牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった。一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て材木運びなどの労働に出て僅かな賃金を稼ぐことで命をつなぐこととなった。また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる全てのものを持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた。その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡した








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