インド問題


2019.12.9-NHK NEWS WEB-https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191209/k10012207371000.html
性的暴行証言の女性 火をつけられ死亡 怒りの声広がる インド

インドで今月5日、23歳女性が性的暴行を受けたとして、裁判所へ証言に向かう途中、複数の男らに火をつけられ、死亡しました。この事件を受けて、インド各地では抗議デモが行われるなど、怒りの声が広がっています。
  インド北部のウッタルプラデシュ州で今月5日、23歳女性が性的暴行を受けたとして、裁判所へ証言に向かっていたところ、5人の男らに灯油をかけられたうえ、火をつけられて死亡しました。
  5人は逮捕され、このうち2人は、女性に性的暴行を加えた疑いのある容疑者だったことが分かり、警察が調べを進めています。
  事件を受けて7日、インド国内では首都ニューデリーなど各地で、性暴力の撲滅と加害者の処罰を求める抗議デモが行われ、参加した人たちは「被害者に正義を」などと書かれたプラカードを持って行進しました。
  インドでは先月にも、27歳女性が集団で性的暴行を受けて殺害されたあと、遺体を焼かれる事件が起きていて、女性への性的暴行が深刻な社会問題となる中、国民の間には怒りの声が広がっています。


2019.11.9-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/world/news/191109/wor1911090011-n1.html
インド最高裁、聖地にヒンズー寺院建設許可 イスラム教徒反発か

【シンガポール=森浩】インド最高裁は9日、ヒンズー教とイスラム教が帰属をめぐって対立していた北部ウッタルプラデシュ州アヨディヤの聖地について、ヒンズー教寺院の建設を認める判断を示した。国内のイスラム教徒の反発は必至で、抗議活動に発展する可能性もある。
 アヨディヤにはイスラム系王朝だったムガル帝国時代の1528年にモスク(イスラム教礼拝所)が建立されたが、ヒンズー教徒側は「以前はヒンズー教寺院があった」と主張。1992年に2万人以上のヒンズー教徒がモスクを破壊し、宗教対立に発展した。一連の衝突で約2千人が死亡したとされる。
 最高裁は9日の判決で、土地はヒンズー教グループに引き渡されるとし、政府の管理下で寺院を建設するよう求めた。イスラム教徒グループには「別の土地が提供される」とした。
 モディ首相は2014年の総選挙で、この土地でのヒンズー教寺院建設を公約にしていた。モディ氏は判決について「誰の勝利でも敗北でもない」として平静を呼び掛けたが、ヒンズー教至上主義を掲げる政権には一定の追い風になるとみられる。


2019年3月

インド問題 パキスタン
  領有権を争うカシミール地方で緊迫が高まっている。発端はインド北部ジャム・カシミール州で2月14日に起きたインド治安部隊40人が死亡するテロ。
     パキスタンに拠点を置くイスラム過激派が犯行声明を出し、事態はインド軍による空爆やパキスタン軍によるインド機撃墜などに発展した。ただカシミール
     地方での住民は、銃撃戦で住宅などを破壊され受難の毎日を迎えている。(2019.3.11)
インド問題 中国問題
  チベット仏教最高始動者ダライ・ラマ14世のインド亡命の契機となった「チベット動乱」(1959年3月10日発生)から60年経た10日、亡命チベット人が多く住む
     インドの首都ニューデリーで中国のチベット支配に抗議する大規模なデモがおこなわれた。(2019.3.11)
2019年2月
インド政府は26日、インド軍機がパキスタン領有権を争うカシミール地方の停戦ラインを超えて空爆を行ったと発表。テロリスト(300人以上)の拠点に絞って
     攻撃した。パキスタンは「テロ」との関与を否定し非難の応酬が続いている。(2019.2.27)
シャム・カシミール地方の領有権問題で、インドとパキスタン両国が非難の応酬をしている。(2019.2.16)
かって日本でも「士農工商」制度があったとされるが、今では皆無となった日本だが、現在でも残るインドの「カースト制度」、さらにその外部の下層組織である
     「ダリット(不可触民)」の現状の生活を考える。(2019.2.8)
2019年1月
インドの貧困地域での治療費が払えず死の危険を迎えている児童を救おうと千葉の「天徳寺」の住職・二神成尊さん、現地の学校経営の百瀬夕子
     さんらが中心となって寄付を募っている。(2019.1.23)
インド南部ケ-ララ女人禁制ヒンズー教寺院に女性参拝で旧信者らによるデモ警察隊と衝突1人死亡、174人負傷(2019.1.6)
インド国境沿いで大規模な道路計画-インド中国で領有権で争っている場所も計画の中に入っているため、中国の反発の可能性がある。(2019.1.15)
インド:海軍力増強:対中国のインド洋進出に対抗目的か?日米は後押ししてい(2019.1.15)

2018年12月
インド:5G通信運用試験でフアーウエイの参加認め排除しない


インド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


インド英語: Republic of India)、またはインド共和国(インドきょうわこく)は、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はニューデリーまたはデリー、最大都市はムンバイ
西から時計回りにパキスタン中華人民共和国ネパールブータンミャンマーバングラデシュ国境を接する。海を挟んでインド本土がスリランカモルディブと、アンダマン諸島インドネシアに近接している。インド本土は、インド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。
1947年イギリスから独立。インダス文明に遡る古い歴史、世界第二位の人口を持つ。国花、国樹は印度菩提樹国獣ベンガルトラ国鳥インドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。

概要
インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第2位の人口を持つ大国である。13億人を超える国民は、多様な民族言語宗教によって構成されている。総人口は2020年代に中華人民共和国を抜いて世界最大になると国際連合により予測されている。
  南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国ネパールブータン、東はバングラディッシュミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイインドネシアとの間に海上の国境がある。
  インド亜大陸の歴史紀元前3千年紀インダス文明にさかのぼる。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年紀には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教ジャイナ教が起こった。初期の統一国家はマウリヤ朝グプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教ゾロアスター教キリスト教イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀ムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。  2017年、インドの経済は名目GDPにおいて世界第7位であり、購買力平価では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長をしており、新興国と言われるようになった。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04パーセントである。ヒンドゥー教徒がもっとも多く、イスラム教シーク教がこれに次ぐ。カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、今でも農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとしている

  連邦公用語ヒンディー語だが、ほかにインド憲法で公認されている言語が21あり、おもな言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。議会制民主主義国家であり、有権者数8億人と世界最大である。州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、世界で2番目に多い常備軍を保有し、軍事支出は世界で5番目である。

歴史
ヴェーダ時代からラージプート時代まで
紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人トリツ族バラタ族プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ」は、インドの正式名称に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
  前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝ダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブシンドガンダーラを失った。前5世紀に釈迦が仏教を説いた。紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世東方遠征では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。紀元前317年チャンドラグプタによってパータリプトラを都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝セレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年ごろ、カリンガ戦争カリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。紀元前232年ごろ、アショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。
  ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原サータヴァーハナ朝ローマ帝国との季節風交易で繁栄(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原カダンバ朝が興り、インドネシアのクタイ王国タルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
  これらの古代王朝のあと、5世紀に、グプタ朝北インドを統一した。サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟エローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラの治世に最高潮に達した。仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。7世紀前半ごろ、玄奘三蔵ヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の仏教経典を中国()へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝ベンガルビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、近隣諸国のパガン仏教寺院アンコール仏教寺院ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝カジュラーホーを建設した。

北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝
11世紀初めより、ガズナ朝ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。
一方、南インドでは、10世紀後半ごろからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。11世紀には北宋との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクデリー・スルターン朝奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。バルバンの治世からモンゴル帝国の圧力が始まった。14世紀初頭にデリー・スルターン朝ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはチャガタイ・ハン国がたびたび侵攻してきた。デリー・スルターン朝トゥグルク朝)は、内紛と1398年ティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国バフマニー朝(その後ムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。

ヴィジャヤナガル王国
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。
  しかし、1565年ターリコータの戦いデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 - 1614)の奮闘もむなしく、その没後王国は滅亡した。デカン・スルターン朝も、その後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。

ムガル帝国
16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブル北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。
  しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教ラージプート族(マールワール王国メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国1686年滅亡)・ゴールコンダ王国1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。このころ、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。
  アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。

インドの植民地化
1498年ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年ディーウ沖海戦オスマン帝国からディーウを奪取した。1511年マラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカを要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド1510年 - 1961年)を築いた。1620年デンマーク東インド会社トランケバルデンマーク領インド1620年 - 1869年)を獲得。1623年オランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアでほかの貿易先を探っていた。
  そのような状況で、ムガル帝国が没落しイギリス東インド会社フランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。同年8月にはマラーター同盟デリーを占領し、インド北西部侵攻1757年 - 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。1760年ヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。
  一方、翌1761年第三次パーニーパットの戦いマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。1764年ブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年アラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方ディーワーニー(行政徴税権)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争マラーター戦争シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。
  インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した
  1824年英蘭協約でイギリスがマラッカ海峡の制海権を確立した。

1833年ベンガル総督ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称。1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン英語版カーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 - 1853年)を開始した。インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争1840年)が行われ、三角貿易体制が形成された。イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。そしてこのころにタタ財閥バンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。インド大反乱(1857 - 1858)をきっかけにして、イギリス政府1858年インド統治法を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世ビルマに追放してムガル帝国を滅亡(1858年)させた。
その後、旱魃によるオリッサ飢饉ラージプーターナー飢饉ビハール飢饉英語版大飢饉英語版が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年イギリス領インド帝国が成立した。

イギリス統治時代(「インド独立運動」も参照)
イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペスト感染爆発が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラク逮捕され、出所後に「スワラージ」を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。
  イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年ベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。

  日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領のひとつとして参戦した。挙国一致内閣インド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定を締結し、「全インド自治同盟」が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。
  1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。1930年には塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。

  第二次世界大戦においてはインド帝国はイギリスの支配の元で再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争にといて、有色人種国家である日本軍が、マレー半島香港シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を瞬く間に破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に大打撃を与えて(インド洋作戦)インドに迫る中、国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。
  また、インドは戦間期シティの利害と関係して、巨額の在ロンドン・スターリング残高を累増させて債権「国」となりつつあった[14]。これに先立つ1935年にインド準備銀行が創立された。1937年にビルマが独立してインドは食料輸入国へ転落した。さらに1939年の防衛費協定によって、イギリスは第二次世界大戦におけるインド軍の海外派兵費用を負担した。これらの結果1946年までに負担は13億4,300万ポンドに累積した。それはインド準備銀行のロンドン残高に英国大蔵省証券として蓄積された。インドは元々イギリスに対して債務国であったが、1942年7月から債権国となっていた。

インド国民軍と独立
1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォート裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。インドの民衆に伝わると国民的反発を各地で呼び、大暴動が勃発。インド独立運動の本格化につながった。さらに1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナー直接行動の日を定めると、カルカッタの虐殺が起こった。
  この暴動を受けて、イギリス本国が独立を容認し統治権を返還した。戦後にインド国民軍将兵らを処刑することへの抗議から始まった大規模な暴動で1947年8月15日に独立を勝ち取ったため、日本軍約7万8,000人とインド国民軍約2万人の日印連合軍によるインパール作戦こそが、インドを独立させた対英インド独立戦争であると元インド国民軍将兵から感謝と評価をする声がある。インドの首都デリーの中心部にはインド国民軍を指揮して日本軍とともにインパール作戦を戦ったインド独立の英雄として、かつての英国植民地支配の象徴であったレッド・フォートの方角をインド国民軍兵士らを率いて指差しているスバス・チャンドラ・ボースの銅像が建っている
  初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。また、1946年12月から1950年まで憲法制定議会立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。
  独立当初はイギリス国王君主に戴く英連邦王国インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家パキスタン分離独立した。
  それまでインドは灌漑地面積において世界一であったが、パキスタンにはインドの公共事業で開拓された灌漑地域の半分以上が存在し、分離により総面積の3分の1に相当する2,200万エーカーを失った。作物では麦の作付面積1,520万エーカーの半分と、綿花では770万エーカーの4分の3を分離された。
  1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。

経済戦争
1948年夏からパキスタンを伴って、イギリスとスターリング残高の取り扱いをめぐり本格的に交渉を始めた。スターリング残高は、インドが9億6,000万ポンド、パキスタンが1億7,000万ポンドとなった。インドは同年9月13日、ポロ作戦ニザーム王国を併合した。1949年春に国際収支危機へ陥り、夏に残高をめぐる再交渉が持たれた。一昨年の妥決では年間6,000万ポンド引き出せることになっていたが、再交渉により5,000万ポンドに減額された。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。独立後、ほかの社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、英国資本によるプランテーションへの投資も続いた。近年においても小学校さえ行けない子も多く貧富の差も激しい。しかも、これは計画経済の結果であった。
  1951年、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連西ドイツの支援を得てインド工科大学第1校が設立された。1952年2月に結んだ5年間の英印協定では、インド政府がロンドンに3億1,000万ポンドのスターリング残高を持つことが確認され、毎年3,500万ポンドの引き出しが認められた。同1952年、パキスタン分離で失われた生産力を底上げするため農業改革が行われ、小作地取上げを激化させた。改革は、綿花、さとうきび、ジュートなどへのモノカルチャー化と結合して進められたが、小農は経費を出せなかったため、収益性の高い作物栽培から疎外された。このとき綿花は世界で価格を暴落させていた。1954年フランス領インドが返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。翌年3月、ソ連との間にビライ製鉄所建設の援助協定が調印された。1955年5月の第13回キッサン・サバ大会では、同党が農業改革に抗議した結果、土地の取り上げを禁じる小作法が成立したものの、同法の実効性が不十分であることが報告された
  1956年1月19日、インドは国内の生命保険を国有化した。国有化の対象にプルデンシャルが含まれていた。6月19日にインド生命保険会社法が成立し、9月1日にはインド生命保険会社が創設された。1956年、インドは西ドイツの主要な輸出先であった(8億マルク超)。
  1957年、インドのスターリング残高がほとんど枯渇した。翌年から世界銀行などから多額の借款を得た。このときにコンソーシアム立ち上げを主導したのがネルーの甥であった。こうして米系銀行がインドの資金を出すようになり、B・K・ネルーは1961年に駐米大使となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年中印国境紛争が勃発、アクサイチンを失った。1955 - 63年のソ連圏から低開発諸国向けの経済援助において、全対象29か国においてインドが最大の被援助国であった(エジプトとインドネシアが順に続いた)。
  1964年、当時に発生した飢饉を教訓に、インド食料公社が設立された。生産者から米・小麦・砂糖・食用油などの作物を最低支持価格で買上げ、政府が定める中央卸売価格を基準に公正価格店に卸す体制が作られた。消費者が妥当な価格で食料を購入できる公平なシステムとされているが、市場原理との齟齬や政府・外資の癒着が問題となっていった。差し迫った次元では小麦と食用油の完全自給ができていない(2003年でも自給率はそれぞれ85パーセントと68パーセント)。

インド国民会議政権
1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリー1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディー国民会議派政権を担った。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、カシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドがともに東パキスタンを支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立ニクソン大統領の中国訪問1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定バングラデシュ独立をパキスタンが承認した。
  1973年1月1日、生命保険以外の保険業を国有化し、(11月22日に)持株会社を創設した。持株会社は、国有化の対象となった総合保険大手4社の上に置かれた。なお、東京海上火災保険が日本勢として国有化の対象となった。国有化は、多国籍企業が国際世論に攻撃される中で、インド債券を国内資本で消化するために行われた。これで工業製品全般を国内生産することができるようになった。1974年5月18日、コードネーム「微笑むブッダ」が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。
  オイルショックが自立しかけたインド経済を停滞させた。保護主義を採用しながら公営の重化学工業を発展させようとして財政を圧迫した。1975 - 77年に人口抑制策が苛烈となり、貧困層の多い北部の州を中心に精管切除を行った1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。
  インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したため平和維持軍を派遣した。1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た[28]。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラ自爆テロでラジーヴも暗殺された。
  後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化によってIT分野で急成長を遂げた。インドはこの年に外貨保有が尽きて債務不履行となりかけていた。例によって国際的な援助を受けたため、外国企業の出資制限を緩和するなどの優遇措置をとった。それまで株式発行はいかなる企業も12か月に1度以上行うことができなかった。1992年、インド証券取引監視法(SEBI法)が制定され、その制限は撤廃されたのである。同年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった。1993年、上場銘柄の株式売買が外国機関投資家に許可された。同年1月、インドはロシアと友好協力条約を結んだ。翌年9月、インド西部でペストが流行した。

インド人民党政権
1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。1997年2月、パンジャーブ州が農業に対する電力供給を州の負担で無料化した。6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。
  1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ」を突如実施。「核保有国」であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功し、日米がインド・パキスタン両国に経済制裁を課した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。
  2000年、保険分野への外資出資比率26パーセントを上限とする民間企業の参入が許可された。2000年以降、大半の産業分野においてインド企業の100パーセント外資所有が認められるようになった
  2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アフガニスタンを当時支配していたターリバーンへの対テロ戦争が優先される形で、インド・パキスタン両国への経済制裁が解除される。以後はITサービス業を中心に経済成長を続け、ロシアブラジル・中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。中立非同盟とはいえ、アメリカ合衆国、イギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国やパキスタンとは緊張関係にある。

インド国民会議政権
2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した。2004年7月、マハーラーシュトラ州でも農民に対する電力料金が無料となった。同州では2001年6月にダボール電力が閉鎖となった。この合弁会社の出資は、州が3割、エンロンが5割、ゼネラル・エレクトリックベクテルがそれぞれ1割であった。インドの電力業は農民から得票したい政治家のためソブリンリスクをとらされている
  同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。
  インド経済は地震の被災者または社会的弱者の生活を救う余力を欠いていた。2000年 - 2005年にかけて、インド民間企業部門の資金動員総額に占める証券(株式・社債)の割合は4.2パーセントから26.5パーセントに急増した(広義の証券化。1999年 - 2004年にかけて、インドの経済成長は雇用の増加をともなわなかった
  2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。
  2008年、アメリカ合衆国がインドへ原子力発電所を輸出しようと原子力協定を締結していた。印パ・イスラエル核拡散防止条約に調印せず、同条約に基づく国際原子力機関との包括的保障措置協定も結んでいない。原子力供給国グループは上記3か国との原子力貿易を禁止していた。そしてアメリカは、上記3か国への原子力資機材や技術等の輸出を規制する国際規範の策定を主導していた。2008年の協定締結後、フランスロシア・日本なども相次いでインドと原子力協定を結ぼうとした
  連邦下院の総選挙2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した。一方最大野党インド人民党(BJP)は116議席にとどまった。
  2010年8月、インド北部ジャンムー・カシミール州で洪水が起きた。州東部のレー町の当局者は、死者が165人に達したと発表した。一方、軍当局者は9日洪水の行方不明者は外国人も含めて500人に達したと発表した。

インド人民党政権
2014年5月開票の総選挙インド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した。首相は2015年4月にムドラバンクを立ち上げた。これは中小企業支援を目的とするノンバンクであった。政府は同年5月、新開発銀行の総裁にシュルンベルジェのカマスを指名。6月末、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に83億ドルの支援を約束した。
  2016年9月にゼネストが起こった。返済能力に乏しい企業の抱える債務がインド債務全体に占める割合は、2016年4月から2017年3月の統計で33.9パーセントにも達した。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。11月上旬、リライアンス・インダストリーズ携帯子会社が社債をデフォルト。リライアンスは財閥として堅牢といえず、トップクラスのミューチュアル・ファンドによって機関化されている。
  2018年8月以降、インフラストラクチャー・リーシング・アンド・ファイナンシャル・サービシズ( IL&FS)が社債などのデフォルトを連続させ、株式市場に大きな影響を与えた。10月1日、政府が(ベイルアウトにより)同社経営陣をすべて入れ替えると発表した。再建計画を受け入れた機関株主は、1956年9月発足のインド生命保険会社(25パーセント)、オリックス(23.54パーセント)、アブダビ投資庁(12.56パーセント)、インドステイト銀行(6.42パーセント)であった。このようなシャドー・バンキング・システムは困難に直面するとみられていた

地理
パキスタン中華人民共和国(中国)ネパールブータンバングラデシュミャンマーとは陸上で、スリランカモルディブインドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。
  パキスタン中華人民共和国(中国)ネパールブータンバングラデシュミャンマーとは陸上で、スリランカモルディブインドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。
  中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州シッキム州北部に接していて、ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州トリプラ州西ベンガル州の3州、ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部・マニプル州ミゾラム州ナガランド州東部と接している。
  インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジア半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロの海岸線を持つ。多くの地域では雨期が存在し、3つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタン係争中カシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤ高山地帯まで多様性に富む。
  インドがほかのほとんどすべての国よりも発展が遅れた主因は水不足であった。インド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州西ガーツ山脈では1万ミリ以上であり、シンド州の一部では100ミリも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す
  中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州シッキム州北部に接していて、ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州トリプラ州西ベンガル州の3州、ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部・マニプル州ミゾラム州ナガランド州東部と接している。
  インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジア半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロの海岸線を持つ。多くの地域では雨期が存在し、3つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタン係争中カシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤ高山地帯まで多様性に富む。
  インドがほかのほとんどすべての国よりも発展が遅れた主因は水不足であったインド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州西ガーツ山脈では1万ミリ以上であり、シンド州の一部では100ミリも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 - 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す

政治
インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。
国家元首大統領。実権はなく、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。(「インドの大統領」も参照)
  副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。
  行政府の長は首相であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。(「インドの歴代首相」も参照)
  議会は、両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。(「インドの国会」も参照)
  上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。(「インドの政党」も参照)

軍事(詳細は「インド軍」を参照)
インド軍は、インド陸軍インド海軍インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府のトップ(政府の長)である首相が有している。インド軍の管理・運営は国防省)・国防大臣が担当する。
  インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5,000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事部隊は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別フロンティアフォース(1万人)である。以前は準軍事部隊とされた政府武装警察部隊と、国境警備部隊中央予備警察などを含む中央武装警察部隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。
  グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度もない。
  近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBMSLBM戦略爆撃機(後述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発など多岐にわたり、国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。

宇宙開発
チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上に渡る運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてISROによる5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した
  2013年11月5日、最初の火星探査機の打ち上げに成功した。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった










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