原爆の日



2019.8.9-日本経済新聞-https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48406280Z00C19A8ACYZ00/
「これだけは繰り返さない」原爆詩つづった山口さん

長崎市で9日開かれた被爆74周年の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で、田上富久市長が読み上げた長崎平和宣言に、被爆者がつづった詩が初めて引用された。二度と戦争を繰り返してはならないと訴える作者の山口カズ子さん(91)は「戦争の愚かしさを考える機会になれば」と願っている。
「目を閉じて聴いてください」。平和宣言の冒頭、田上市長は呼びかけた。

    息ある者は肉親をさがしもとめて 死がいを見つけ そして焼いた
   人間を焼く煙が立ちのぼり 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた

参加者はまぶたを閉じ、読み上げられる詩にじっと耳を傾けていた。
詩の引用が提案されたのは、5月の市の平和宣言起草委員会。「被爆の惨状や被爆者の思いを伝えられる」として採用が決まった。長崎市によると、平和宣言に被爆者が書いた詩が引用されたのは初めてだ。
山口さんは爆心地近くの長崎市松山町に生まれ、当時17歳で女子挺身(ていしん)隊として三菱の兵器製作所に勤務していた。母のエイさん(当時44)と妹の園子さん(同14)、テルエさん(同11)と4人暮らし。父を亡くし、母子家庭だった。
山口さんは爆心地から約1.1キロ離れた勤務先で被爆した。気を失い、顔や手にやけどを負ったものの一命は取り留めた。だが、母と2人の妹は犠牲になった。「語るまい、思い出したくない」。山口さんは戦争が終わっても、つらい体験を他人に話したり、書いたりすることはなかった。
結婚して3人の子供にも恵まれ、ようやく過去を振り返る余裕も出てきた時期だったという。被爆から34年後のある日、ふと空を見上げると、晴れ渡ったきれいな空が広がっていた。「きょうは平和でいいなあ」。しみじみ幸せだと思った。

 あの日から三十四年 青い空を見上げてただひたすら感謝する 戦争というものがない今日この日だから

詩を書くのは初めてだったが、率直な気持ちを1行記すと、その後は自分でも不思議なくらい、すらすらと言葉が出てきた。

 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた

詩には山口さんが目の当たりにした被爆直後の惨状が生々しい。「亡くなった母や妹、そして原爆の火で焼かれていった多くの人たちが私の言葉を通して語りかけ、書かせてくださった」。山口さんは今でもそう思えてならないという。詩を聴いた人にとって「原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを改めて考えていただける機会になったら望外の幸せです」と話す。

 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど…… このことだけは忘れてはならない このことだけはくり返してはならない どんなことがあっても……


2019.8.9-しんぶん赤旗-http://jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-08-10/2019081001_01_1.html
核兵器廃絶へ歴史的行動を長崎被爆74年
世界大会ナガサキデー集会


長崎市は9日、原爆が投下されてから74回目の「原爆の日」を迎えました。長崎市主催の平和式典には被爆者や遺族などが参列し、田上富久市長が「長崎平和宣言」で、「唯一の戦争被爆国として一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准を」と求めました。日本共産党の小池晃書記局長が献花しました。原水爆禁止2019年世界大会・長崎の閉会総会(ナガサキデー集会)では、日本政府に核兵器禁止条約への署名、批准を求め、被爆75年、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれる2020年に向けて、草の根から歴史的な運動を広げようと呼びかけました。
 ナガサキデー集会には会場があふれかえるほどの5000人(主催者発表)が参加しました。
 大会決議「長崎からのよびかけ」と特別決議「長崎からすべての国の政府への手紙」では、被爆75年、NPT再検討会議が開かれる2020年を核兵器廃絶に向けた歴史的転機とするため、「全力をあげて歴史的な行動に立ち上がる決意です」と表明。各国政府に対して、核軍縮に取り組み、核兵器禁止条約への参加を求めました
 集会では、4歳で被爆した横山照子さん(長崎原爆被災者協議会副会長)が被爆体験を証言。一日も早く核兵器禁止条約を発効させたいとのべ、「生きているうちに核兵器廃絶を願いながら、多くの被爆者が亡くなりました。被爆者は最後の力を振り絞って頑張ります。永遠に、長崎を最後の被爆地にしましょう」と訴えると、拍手が起こりました。
 純心女子高校3年生(17)が、核兵器廃絶を求める「高校生1万人署名」が20万人を超え、高校生平和大使が国連へ届けると述べると、拍手がわき起こりました。
 全国の参加者が次つぎとステージにあがり、活動を報告。北海道伊達市から参加した伊達高校3年は、「被爆者の生の声を聞いて平和への願いを強く感じました。これからも平和への扉をたたき続けていきます」と発言しました。
 海外代表も加わり「ヒバクシャ国際署名」を集めてNPT再検討会議に届けようとアピールすると場内は一つになりました。
 原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の安井正和事務局長が行動提起し、「ヒバクシャ国際署名」を飛躍的に広げ、核兵器の非人道性を訴え、禁止条約参加を求める共同行動を呼びかけました。
 福岡県飯塚市から3歳の娘を連れて初めて参加した女性(24)は、核兵器による被害だけでなく日本による加害の歴史も学んだと述べ、「いまの日韓問題につながると実感しました。武力では平和をつくれない。学んだことを周りの人に伝え、行動したい」と話しました。


8月6日は『広島原爆忌』『広島原爆の日』と言い、1945年8月6日にアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下に由来する。8月9日は『長崎原爆忌』『長崎原爆の日』と言い、1945年8月9日にアメリカ軍による長崎市への原子爆弾投下に由来する。 それぞれの日には、広島平和記念式典や長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される

長崎市への原子爆弾投下では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。 ... 正式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。




2019.8.6-産経新聞-THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/politics/news/190806/plt1908060009-n1.html
安倍首相、広島・平和記念式典のあいさつ全文 「核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努める」
(1)
安倍晋三首相が6日、広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)で述べたあいさつの全文は以下の通り。

 今から74年前の今日、原子爆弾により、十数万ともいわれる貴い命が失われました。街は焦土と化し、人々の夢や明るい未来が容赦なく奪われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。 原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠をささげます。 そして、いまなお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 核兵器によってもたらされた広島と長崎の悲劇を決して繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力をたゆまず続けること。これは、令和の時代においても、変わることのないわが国の使命です。新しい時代を平和で希望に満ちあふれた時代としなければなりません。
 近年、世界的に安全保障環境は巌しさを増し、核軍縮をめぐっては各国の立場の隔たりが拡大しています。 わが国は、「核兵器のない世界」の実現に向け、非核三原則を堅持しつつ、被爆の悲惨な実相への理解を促進してまいります。核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です。
 明年は、核拡散防止条約(NPT)発効50周年という節目の年を迎え、5年に一度のNPT運用検討会議が開催されます。この会議において、意義ある成果を生み出すために、一昨年、ここ広島から始まった核軍縮に関する「賢人会議」の提言などを十分踏まえながら、各国に積極的に働きかけていく決意です。
 私たちには、唯一の戦争被爆国として、核兵器の非人道性を、世代や国境を越えて伝え続ける務めがあります。
(2)
被爆者の方々から伝えられた被爆体験を、しっかりと、若い世代へと語り継いでいく。 そして、広島や長崎を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れることで、平和への決意を新たにすることができる。 そうした取り組みをわが国として、着実に推し進めてまいります。
 被爆者の方々に対して、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め、今後も、被爆者の方々に寄り添った援護施策を総合的に推進してまいります。特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
 結びに、「国際平和文化都市」として発展を遂げた、ここ広島市において、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げます。 

 原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆さま、ならびに、参列者、広島市民の皆さまのご平安を祈念いたしまして、私のあいさつといたします。
              令和元年8月6日 内閣総理大臣・安倍晋三



広島平和記念式典
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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式は、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日の原爆忌に平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典である。 一般的には略して広島平和記念式典と呼ばれている。久平和を祈念するための式典である。 一般的には略して広島平和記念式典と呼ばれている。

式典は会場である平和記念公園の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族をはじめとして、市民多数の参加のもとで挙行されるものである。毎年広島市長によって行われる平和宣言は核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を訴え続けているものであり、世界各国に送られている[2]。また秋葉忠利市長(アメリカへ留学経験がある)になってから英語による平和宣言も発表されるようになった。
毎年、NHK・民放のテレビやラジオなどで生中継されるなか午前8時から始まる。原爆が投下された午前8時15分に平和の鐘やサイレンを鳴らし、式典会場のみならず、家庭、職場で原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り(市内を走行中のバスや広島電鉄の車両もこの時間には停車し、乗客も黙祷を行う)、1分間の黙祷を行ったあと、広島市長が平和宣言、子供による平和への誓いを行うのが通例である。また当日の広島市の各所では、原爆死没者に対する慰霊と核兵器廃絶を訴える式典や、原爆の被害を直接受けた被爆電車の運行が行われている。
この式典の性格は原爆を投下したアメリカに対する反米感情よりも、むしろ恩讐を超えた世界の恒久平和への希求であるとしている。冷戦時代には人類を滅亡へと導く手段として、現在では核拡散によって過激な集団によって大量殺戮しかねない方法として、破壊のための核兵器使用の危険性がある以上、核兵器の存在を認めず廃絶を求めることは世界最初の被爆地として責務であると、歴代の広島市長は平和宣言の中で訴えている

1947年に「広島平和祭」として第一回が催され、当時の広島市長である浜井信三が平和宣言を行った。このときはGHQによる占領統治時代であったため、検閲で平和への思いが消されないためにどうするか苦労したという[要出典]。この平和祭では式典のほか市内各所で盆踊りや仮装行列なども催され、アメリカの雑誌『ライフ』が「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と形容したほど市民に希望を与えるものであった。
1950年6月から始まった朝鮮戦争において、米国は核兵器の使用を検討していた。原爆使用禁止のストックホルムアピールへの世界的署名運動が高揚するなか、GHQによってこの年の平和式典は禁止・中止された。原爆詩人・峠三吉らはこれを弾劾して原爆詩集などを発表した。これらの運動は朝鮮戦争でのアメリカ軍の核使用を押し留める一因となったといわれている。
平和記念公園が開設された1954年以降は現在の形式で行われている。なお被爆から70年以上が経過し、被爆体験を持つ人たちの平均年齢が80歳を超えたことで、被爆経験が戦争経験と同様に風化してきていると指摘されている。


広島市への原子爆弾投下
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広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦太平洋戦争)末期の1945年昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。
この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。原爆投下後の入所被爆者も含め56万人が被爆したとされる
広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原子爆弾投下に関する言及である。アメリカ軍が、広島市に対して投下した原子爆弾リトルボーイ」(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。

広島への原爆投下に至る国際的軍事背景
1939年8月2日 - ドイツからアメリカに移住したユダヤ人アルベルト・アインシュタインフランクリン・ルーズベルト大統領に「大量のウラン核分裂連鎖反応を起こす現象は新型爆弾の製造につながるかもしれない。飛行機で運ぶには重過ぎるので船で運んで港湾ごと爆破することになる。アメリカで連鎖反応を研究している物理学者グループからなる諮問機関をつくるのがいい」と進言する内容の手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を執筆した。
  ・1939年9月1日 - 第二次世界大戦が勃発。
  ・1939年10月11日 - 前述のアインシュタインの手紙がルーズベルトの元に届けられる。
  ・1939年10月21日 - アメリカがウラン諮問委員会を設置。
  ・1940年4月10日 - イギリスが第1回ウラン爆発軍事応用委員会(MAUD委員会)の会議を開催。
  ・1941年7月15日 - MAUD委員会がウラン爆弾が実現可能だとする最終報告を承認して解散。
  ・1941年10月3日 - MAUD委員会最終報告書が公式にルーズベルト大統領に届けられる。
  ・1941年12月8日 - 太平洋戦争が勃発。
  ・:1942年9月26日 - アメリカの軍需生産委員会マンハッタン計画を最高の戦時優先等級に位置づける。
  ・1942年10月11日 - アメリカはイギリスにマンハッタン計画への参画を要請。
  ・1944年9月 - ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相の間でハイドパーク覚書ケベック協定)が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。その後1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった

原爆投下命令
1945年7月25日、マンハッタン計画の責任者であるレスリー・グローブスが投下指令書を作成し(しかし、それを大統領だったハリー・トルーマンが承認した証拠はない)、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)により原爆投下がなされた。

四国上空
6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ英語版海軍大佐、兵器担当補佐モリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。
作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。
この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点(ブリップ)を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000メートル前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700メートルまで高度を上げた。
さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した。エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。

広島上空
 7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ]
この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

 8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった
 8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート (9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
 8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点 (IP) に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度などの入力をし、投下目標 (AP) を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
 8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした

帰投
 14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された
 原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後にグレート・アーティストに搭乗した科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下をとらえた唯一の映像となっている

広島市の略史と被爆直前の状況
広島市戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。さらに広島高等師範学校広島女子高等師範学校広島文理科大学広島工業専門学校広島高等学校を有する学都でもあった。
広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営広島大本営)が置かれ、また臨時帝国議会第7回帝国議会)も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200メートルに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部兵站上の重要な拠点であった。
被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、および 市外から所用のため市内に入った者約2万人である。


長崎市への原子爆弾投下
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長崎市への原子爆弾投下)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍日本長崎県長崎市に対して投下した、人類史上実戦で使用された最後の核兵器である。
アメリカ合衆国連邦政府は、長崎市に投下した原子爆弾のコードネームを「ファットマンFat Man)」と名付けていた。正式名称はマーク3(Mk.3)核爆弾。(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。ファットマンの投下より、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。
長崎県、長崎市を指す「長崎」が「ナガサキ」と片仮名表記される場合は、長崎市への原子爆弾投下に関する言及である。

原爆投下時
テニアンから小倉上空8月6日広島原爆投下作戦において観測機を務めたB-29グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、部隊の司令官であり、広島へ原爆を投下したB-29「エノラ・ゲイ」の機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び原爆投下作戦が行われるためにその指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であることを告げられた。
その時に指示された戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機無しで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものであった。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いた。出撃機は合計6機であった。

スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなったのである。
ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原爆を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲量は10分の2であるとの報告があった。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにした。

午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が、当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のために、目視による投下目標確認に失敗する。この時視界を妨げていたのは前日にアメリカ軍が行った、八幡市空襲(八幡・小倉間の距離はおよそ7km)の残煙と靄だといわれる(アメリカ軍の報告書にも、小倉市上空の状況について『雲』ではなく『煙』との記述が見られる)。この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、新型爆弾を警戒して「コールタールを燃やして煙幕を張った」と証言している[2]。その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。

長崎上空
長崎に向かう途中、トラブルが発生した。グレート・アーティストの居場所について声をかけられた航法士が、インターホンのボタンを押したつもりが誤って無線の送信ボタンを押してしまったのである。直後、「チャック! どこにいる?」という、未だ屋久島上空で旋回しているホプキンズからの返事が返ってきた。結果的に無線封止を破ってしまったボックスカーは、なぜか急旋回してグレート・アーティストとニアミス。危うく空中衝突をするところであった。
長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。

スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、午前10時58分、高度9,000mから「ファットマン」を手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3kmもそれた松山町171番地の別荘テニスコート上空503m±10mで炸裂した
「ボックスカー」は爆弾を投下直後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の「グレート・アーティスト」から爆発の圧力、気温などを計測する3個のラジオゾンデ落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村上川内(爆心地から11.6km)、田結村補伽(同12.5km)、江の浦村嵩(同13.3km)に落下した。
「ボックスカー」と「グレート・アーティスト」はしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。

この時の原爆爆発の様子は16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っている。長崎のキノコ雲については、爆心地から約10km離れた香焼町で炸裂から約15分後に住民が撮影した写真が残されている他、遠くの県からも見えたとの証言もある。約100km離れた熊本県熊本市でも「ピカッと閃光が走り、空気がぶるぶるっと震え、遠くにキノコ雲が上がるのが見えた」との証言がある。また遠く200km離れた大分県中津市でも「あの日長崎方面から立ち上がるキノコ煙が見え、何事かと不安になり恐ろしかった」と当時を語る証言もある。

長崎原爆の威力
長崎原爆はプルトニウム239を使用する原子爆弾である。このプルトニウム原爆はインプロージョン方式で起爆する。長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。
長崎市は周りがで囲まれた特徴ある地形であったため、熱線爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。
仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合、平坦な土地が広がり、本州九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市若松市八幡市門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測される










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