船の問題-1



2020.12.14-産経新聞 THE SANKEI NEWS-https://www.sankei.com/affairs/news/201214/afr2012140002-n1.html
津波で流され八丈島に漂着 宮城の漁船、10年近くで600キロ

   平成23年の東日本大震災の際、宮城県気仙沼市の漁港から津波で流された漁船が、600キロ以上離れた伊豆諸島の八丈島(東京都八丈町)に漂着したことが14日、八丈島漁業協同組合などへの取材で分かった。10年近く漂流していたとみられる。
   漁協によると、船は10日午後、八丈島の海岸付近を漂っているのが見つかり、地元漁師らが11日朝までにロープで港に引っ張って陸揚げした。繊維強化プラスチック(FRP)製で全長約5メートル。サンゴが大量に付着していた。
   船の登録番号から宮城県漁協唐桑支所(宮城県気仙沼市)所属と判明。同支所によると、東日本大震災で唐桑半島の漁港から流されていた。
   漁船は今後、八丈島で処分する方向で調整を進めているという。


2020.11.28-NHK NEWS WEB(茨木 NEWS WEB)-https://www3.nhk.or.jp/lnews/mito/20201128/1070011472.html
貨物船と遊漁船が衝突 1人死亡

  28日朝、茨城県の鹿島港の入り口付近で貨物船と遊漁船が衝突して、遊漁船に乗っていた12人全員が海に投げ出され乗客の男性1人が死亡したほか、11人がけがをしました。
  鹿島海上保安署は港に入ろうとしていた貨物船と港を出ようとしていた遊漁船が衝突したと見て、国の運輸安全委員会とともに事故の原因を調べています。
  28日午前5時半ごろ、茨城県の鹿島港の入り口付近で貨物船「はやと」498トンと遊漁船「第五不動丸」が衝突し、「第五不動丸」に乗っていた乗客10人と乗組員2人のあわせて12人全員が海に投げ出されました。
  まもなく全員救助されましたが、このうち、乗客で都内に住む46歳の男性が死亡し、ほかの乗客9人と乗組員2人のあわせて11人がけがをしました。
  この事故で「第五不動丸」は船体のほとんどが水没して船首部分だけが海面に出た状態になりました。
  鹿島海上保安署や双方の会社などによりますと、貨物船は、積み荷を載せるため28日鹿島港に入港する予定だったということです。
  一方の遊漁船は、釣り客を乗せて沖に向かう途中だったということで、鹿島海上保安署は港に入ろうとしていた貨物船と港を出ようとしていた遊漁船が衝突したと見て、国の運輸安全委員会とともに当時の状況と事故の原因を調べています。
  国の運輸安全委員会の調査官3人は、28日午後3時半すぎ、事故の調査のため鹿島海上保安署に入りました。
  その後、末門賢巳船舶事故調査官がNHKの取材に応じ、「本格的な情報収集はこれから行っていく。まだ、あたりが暗い早朝の衝突事故ということで双方の見張りがポイントとなってくると思うが予断を持たず、貨物船や遊漁船の双方から話を聞いたり衝突の痕を確認したりして事実を明らかにしていきたい」と話していました。


せきれい丸沈没事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


  せきれい丸沈没事故は、1945年(昭和20年)12月9日に発生した海難事故播淡連絡汽船せきれい丸が台風並の荒天の中、定員100名の3倍を超える乗客を乗せたことにより、復原力を失って瀬戸内海東端に位置する明石海峡の松帆の浦沖合1500mで転覆沈没し、死者・行方不明304名を出す惨事になった

  1945年12月9日明石海峡晴天であったが、台風並みの突風が吹き荒れていた。当時は船舶の運航権限は全て船長に任されていて播淡連絡汽船所属、播淡連絡船せきれい丸の船長も当便を欠航する予定であった。しかし淡路島から対岸の明石市京阪神方面の闇市に買い出しに行く人や、生鮮品の行商人が黒山の人だかりで出航を待っており、彼らの一部にせがまれて岩屋港を出航し対岸の明石港に向かった。せきれい丸は総トン数34t、長さ19m、幅4m、定員100名の木造船であったが定員の3倍以上の乗組員5名、乗客344名を乗せていた。
  9時頃、松帆崎1.5km沖合で西からの突風に吹かれたため寒風と波を避けようと乗客が右舷に集まりだした。このため、せきれい丸は傾き激しい潮流と波にあおられ転覆して沈没した。付近で操業中の漁船群が救助に向かい、45人を救助したが死者・行方不明304名を出す惨事となった。せきれい丸の船長は救助を拒否し、そのまま船とともに沈み殉職した。遺体が確認されたのは17名、287名は行方不明のままとなった

  第二次世界大戦終結の3ヶ月後であり、戦前の古い船舶に定員以上の乗客を乗せることが当たり前のように行われていた背景がある。この事故が起きた後も1955年にかけて瀬戸内海各地で旅客船の遭難が相次ぎ、本州四国連絡橋架橋運動が盛んとなった。明石海峡では以前から架橋構想があったものの、神戸市長や淡路島出身の国会議員の働きかけから半世紀後に明石海峡大橋架橋が成就した。
  1987年(昭和62年)、明石海峡大橋の工事開始を契機に海上安全の願いを込めて淡路市岩屋の鳥ノ山展望台に慰霊碑がせきれい丸の遭難者慰霊碑建立会によって建てられた。碑文には「当時は戦後の混乱期で十分な供養もなされないまま今日に至ったが、このたび明石海峡の架橋工事(が)始まるのを契機に、犠牲者の慰霊とともに平和と海上安全の願いを込めて、この塔を建立した」と記されている









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