チベット・ウイグル問題



2019.10.30-沖縄タイムス-https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/491205
中国にウイグル族拘束の停止要求 国連で23カ国が声明

【ニューヨーク共同】国連総会第3委員会は29日、米ニューヨークの国連本部で人種差別撤廃について討議した。日米英など欧米諸国を中心とした23カ国は中国に対し、新疆ウイグル自治区の少数民族ウイグル族らの恣意的な拘束などを直ちにやめるよう要求した。英国のピアス国連大使が共同声明を読み上げた。
 ロイター通信によると中国の張軍国連大使は記者団に対し、米中貿易協議を念頭に「一方で貿易での合意を模索しながら、他方で人権問題を非難に利用するとは想像しがたい」と反発。貿易協議での合意成立に「役立つとは思えない」と語った。(共同通信)


2019年3月28日 産経新聞 (上)
チベット動乱

チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(83)が幼少のころ眺めたであろう4千メートル級の白い山並みが眼前にそびえる。
   中国青海省の省都・西寧近郊の紅崖(こうがい)村。広大なチベット高原の東端に位置するこの寒村に、目指すダライ・ラマの生家があった。
   「写真を撮っただろう? 村民以外、村に入ることは禁じられている。理由? 敏感な時期だからだ!」
 村の入り口に警察の臨時派出所が設置され、24時間態勢で監視が行われていた。派出所からの「日本人記者拘束!」の一報に、
   早朝にもかかわらず地元警察の幹部らが町から飛んできた。携帯電話を取り上げられ、写真を削除され、約2時間後に解放された。
 1935年、農家に生まれたダ ライ・ラマは当時のチベット政府に観音菩薩の生まれ変わりと認定され、4歳のときにチベット高原南部のラサに移った。
   武力によるチベット統治を進める中国に対し、59年3月10日、ラサで数万人が蜂起するチベット動乱が勃発、中国軍に鎮圧された。23歳の
   ダライ・ラマは同17日、ラサを脱出、約2週間かけてインド入りし、亡命政府を樹立した。 
 それから60年-。中国が恐れるのは、60周年を機にチベット族が中国への抗議活動を繰り広げることだ。それを外国メディアが報じれば、
   習近平政権の失政を世界に印象づけてしまう。チベット仏教の“聖地”では、治安要員らが自動小銃で武装し、60戸余りの小村を厳戒態勢下
   に置く異様な光景が広がっていた。
 中国政府は27日、「チベット民主改革60年」の白書を発表し、「共産党の指導の下、チベットの発展は新時代に入った」と宣言。「信仰の自由は保障」
   され、「住民の生活満足度は97%を超えた」と自賛した。
 今月行われた全国人民代表大会(国会)の際にも、チベット自治区トップで漢族の呉英傑・党委員会書記はこう強弁している。「チベット人民たちは共産党
   がもたらした幸せな生活に感謝しているのだ-」中国青海省玉樹の海抜は4400メートルを超える。人口約10万人の9割以上をチベット族が占める
   この地で由緒あるチベット仏教寺院を訪れた。寺院内には高僧の写真が何枚も飾られていた。チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の写真は
   どこにもない。ところが、ある僧(53)の家に入ると、正面に習近平国家主席の写真が掲げられていた。車庫から高級外国車の車体がのぞく。
 中国で暮らすチベット族は約700万人。習政権は、チベット族が多数居住するチベット自治区(区都ラサ)や青海省などで交通インフラや観光業の整備を
   進めている。同自治区の昨年の経済成長率は9・1%と全国1位を記録した。政権は民生向上をアピールする一方で、ダライ・ラマについてチベットの
   独立をたくらむ「分裂主義者」と激しく非難。「宗教の中国化」を推進し、信仰より共産党を優先するようチベット族に迫っているのだ
 「中国の経済発展のおかげで暮らしが良くなった」(44歳のチベット族男性)といった声も少なくない。ただ、その男性は「外国に行きたくても行けない
   んだ」とこぼす。チベット族がパスポートを取得するのは非常に困難なのだという。移動の制限がいまだに残っている。「私たちは外部の人と自由
   に話をしてはいけないことになっています」。そう言って口を閉ざすチベット族の女性(20)もいた。暮らしは良くなっても、チベット族に対する管理
   は厳しいままだ。
 宗教とは直接関係のない領域においても自由が制限されている。これらもまた、「共産党がもたらした幸せな生活」の紛れもない一面である。
    青海省の省都・西寧郊外にある塔爾寺はチベット仏教の名刹(めいさつ)だ。中庭に僧らが集まって読経していた。100人以上いるだろうか。
    その背後に治安要員が立って彼らを凝視している。境内には、監視カメラが約50メートルおきに設置されている場所もあった。真新しい監視カメラ
    の下で、チベット族の女性たちが体を地面に投げ出す「五体投地」の礼拝を繰り返していた。ダライ・ラマはチベットから完全に消えたのか。
    「(寺院や僧の宗教活動は)当局によって監視されているからね。でも、庶民の家の中は大丈夫。私たちの精神的支柱だよ」と明かすのは、商店を営む
    40代のチベット族男性だ。「これまで自分の力で生計を立てて頑張ってきた。習近平の写真を掲げる必要なんてあるかい?」自宅の壁で
    「ダライ・ラマ14世」が笑っていた。
 ダライ・ラマの故郷、青海省紅崖村で会った60代の男性はしかし、「チベットの(法)王なのに60年も帰ってくることができない。お会いしたい。でも、
    中国は帰還を認めないだろう」とあきらめ顔で話す。
 亡命政府によると、統制を強める中国の政策に抗議するため焼身自殺を図ったチベット族は、この10年で150人を超えるという。
 ダライ・ラマ14世がインドに亡命してから今月30日で60年。28日には、チベット動乱を鎮圧した中国が“ダライ・ラマなきチベット”の完全な統治
    を宣言してから60年になる。ダライ・ラマの帰還が一向に実現しない中、中国、インド、日本に生きるチベットの人々の現状を追った。

2019年3月29日 産経新聞 (中)
チベット動乱

チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(83)がチベットの中心地ラサを脱出して以来、毎年数千人が後を追うようにインドに亡命した。インド各地に
    チベット人社会が形成されたが、その環境は変化しつつある。故郷に帰るめどが立たない中、60年が経過して世代交代も進む。「故郷には戻りたいが、
    中国には帰りたくない」。難民たちには無力感も漂う。「3月のまだ寒い日だった。ノルブリンカを出発したことが昨日のことのように思い出せる」
  チベット亡命政府があるインド北部ダラムサラで、チベット難民のタシ・ツェリンさん(82)は60年前の出来事を振り返った。ツェリンさんは1959年3月、
    ダライ・ラマがラサ近郊の離宮ノルブリンカを離れてインドに脱出した際、護衛として付き従った。脱出時、ダライ・ラマは中国人民解放軍から身を隠す
    ため一般兵士に変装していた。悪天候が続く中、周囲を鼓舞するためにツェリンさんらにつねに声をかけ続けたという。「靴は底が外れてぼろぼろになり、
    ほとんど裸足で歩いた。あの道程はチベット人の苦しい歩みの始まりだったのかもしれない」とツェリンさんは振り返る。
  チベットに兄弟がいるが会いたくはない。彼らが中国政府の職員として働いたことを知ったためだ。「チベットを裏切ったんだ。生涯会う気にはなれない。
    私の人生はインドにある。私はここで幸せに死ぬだろう」。分断された家族に抱く複雑な心境からは中国への怒りが透けてみえた。ツェリンさんのような
    チベット難民は現在約10万人がインドで生活する。既に孫やひ孫の世代も誕生しており、チベットを知らないチベット人は確実に増加している。
    ニューデリーのチベット人居住地域で暮らすサンポさん(20)は「自分は積極的にチベットに帰りたいと思わない」と話す。今は電気技師として働くが、
    将来的には米国への留学を希望する。「中国が憎いことに親世代も私も変わりはない。だが、それよりはインドで生活を安定させ、前を向いて進みたい」
    と“新世代”の心境を代弁した。亡命も減少しつつある。年間3千人近かったチベットからの流入は年間数十人程度に減少。中国による国境警備の強化や、
    亡命ルートだったネパールが中国の顔色をうかがうようになり、通過が困難となったことも大きい。一方、難民を受け入れるインド政府の対応にも変化
    が見える。昨年2月には公務員らに対し、チベット亡命政府関連行事への出席を自粛するよう通達した。亡命政府は難民受け入れに感謝する催しを
    企画していた。インド政府が関係修復を目指す中国に配慮した-という観測が流れた。
  難民2世の1人、テンジンさん(40)は「インドに見捨てられたらどうしようもない」とコメント。「祖国であるチベットに帰りたいが中国には戻りたくない。
    何もできないのが現状だ」と吐露した。
  高齢のダライ・ラマは、後継問題が取り沙汰される。チベット仏教の指導者は死後に転生すると信じられているが、14世は近年、自らが生前に後継を指名
    する意向を明らかにしている。死後の転生という伝統からは反するが、中国政府が自らの息の掛かった“次のダライ・ラマ”を選び出すことへの警戒心がある。
  亡命政府は10月3日から世界のチベット仏教の高僧や学者を集め、「ダライ・ラマとチベットの今後」について話し合う会議を開催する。将来的に2人の
    ダライ・ラマが並立する可能性がある中、亡命政府のロブサン・センゲ首相は「そうなってもチベット人は誰も中国が選んだダライ・ラマを尊敬しない」
    と断言した上で、こう付け加えた。「この60年はチベット人にとって苦難の時代だった。だが私たちは弱くはない。ダライ・ラマとともにあり、中国には屈さない

2019年3月30日 産経新聞 (下)
チベット動乱

「日本政府には、チベットの宗教や文化を守りたい私たちの願いを橋渡しする仲介者になってほしい」。チベット動乱から60年となった3月、日本に帰化した
    亡命チベット人、西蔵ツワン氏は切実な思いを語った。西蔵氏は、インド・ダラムサラのチベット亡命政府が、将来のチベットを担う人材を育てるため
    日本に派遣した最初の留学生5人のうちの一人。1952年、ネパール国境に近い商業が盛んなチベットの都市、シガツェに生まれた。裕福な家庭で
    育ったが、59年3月のチベット動乱の際、貿易の仕事でインドにいた父が帰国できなくなり、母や妹と不安な日々を過ごした。
  小学校で「ダライ・ラマは国家分裂主義者」と教え込まれ、チベットの元貴族や高僧が人民裁判にかけられ、公開処刑で銃殺されるのを目撃した。
    「それを疑問に思わないほど洗脳されていた」と振り返る。父が突然、帰宅したのは62年。亡命目的と知らないまま、家族と一緒に「国境地帯の温泉
    で湯治する」つもりで家を出たのがネパール経由でインドへ向かう旅の始まりだった。難民キャンプの生活は貧しかったが、成績が優秀だった西蔵氏
    は65年、日本留学の機会に恵まれた。留学生5人で受け入れ先の埼玉県毛呂山町にある病院の宿舎で共同生活を送り、勉強に明け暮れた。やがて
    埼玉医科大に進学し、医師免許を取得。今は同県日高市にある武蔵台病院で院長を務めている。
  仲間もそれぞれの道を歩んだ。最年少のダムデン・ギュルミー氏は同県嵐山町で開業医になった。日本体育大で柔道を修めたギュルミ・ワンダー氏は
    ダライ・ラマ14世のボディーガードになり世界を歴訪した。大学卒業後にインドへ戻ったトプゲイ・ブティア氏は日本大使館の現地職員として日印交流に
    貢献した。リーダー格だったペマ・ギャルポ氏は拓殖大国際日本文化研究所教授になりチベット問題の解決を訴える活動を続けている。ペマ氏の耳には、
    チベットの状況の悪化が伝わっている。〈学校の運動会でチベット語の放送がなくなった〉〈チベット仏教の僧院が取り壊された〉〈中国共産党が僧院を運営し、
    14世の代わりに習近平国家主席の写真を拝むよう指導している〉ペマ氏は、こうした同化政策の背景に、「政治的、経済的、軍事的に力をつけた中国の
    おごりがある」と分析。仏寺の取り壊しが進んだ文化大革命(1966~76年)の時代に「時計の針が逆戻りしているようだ」と嘆いた。
  日本へ留学する若い世代のチベット人には中国籍を持つ者もいる。彼らを支援する阿部治平さんは「中国でチベット人が抑圧される構図が日本の大学に
    持ち込まれている」と指摘する。
  2008年の北京五輪を前に、聖火が日本を訪れた際、中国の国旗を振ってランナーを応援するイベントが行われたが、実験のため参加できなかった理系
    のチベット人学生が嫌がらせを受けた。チベットの人権問題は世界中から関心を集めている。しかし、日本政府はこの問題から目をそらそうとしているのが
    現状だ。
  米英仏独など主要国の指導者は、中国からの抗議を受けながらもみな14世と面会したことがある。一方、14世はこれまで30回以上日本を訪れたにも
    かかわらず、首相との面会は一度も実現したことがない。 「14世が健在なうちにチベットへ戻ることができるよう力を貸してほしい」。日本で暮らす
    亡命チベット人は約100人。思いは日本政府に届くだろうか。
 (この連載は、中国青海省紅崖村 藤本欣也、インド北部ダラムサラ 森浩、外信部 平田雄介が担当しました)


チベット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


チベット英語:Tibet)は、東経77-105度、北緯27-40度に至る地域を占め、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。

地理
インド亜大陸アジア大陸に衝突して隆起することによって生成され、高原の自然環境に適応した独特の魚類哺乳類が分布し、また高原内に多数分布する塩湖は、渡り鳥の中継地となっている。
乾燥した気候で、ヒマラヤの南斜面、四川盆地の隣接地域などを除き山の斜面に樹木は乏しいが、河川に沿った水の豊かな平野部では大麦を主とした農耕が行われ、その背後に広がる草原地帯において牧畜が営まれている。
チベット高原(中国語:青蔵高原)はユーラシア大陸の中央部に広がる世界最大級の高原で、チベットの領域とほぼ等しい。

領域-(詳細は「チベットの領域に関する認識と主張」を参照)
チベットの領域については、チベット人の伝統的な観念(そしてチベット亡命政府の主張)と中華人民共和国による主張とで大幅な相違がみられる。
チベット人は、「チベット民族居住範囲」にほぼ相当する地域を、伝統的に「チベットの領域」と考えて来た。チベットが伝統的に用いて来た地理的区分方式では、この領域を「チベット三州あるいは「十三万戸」、「プーと大プー」などという形で区分してきた。
中華人民共和国による現行の行政区画では、チベット内には、省級の自治体が2(西蔵・青海)、隣接する四川・甘粛・雲南に分属する形で地区級の自治体が4、県級の自治体が2設置されている(詳細は「中華人民共和国によるチベットの分割と再編」を参照)

日本
日本では、チベット(西蔵)の領域は、チベット全域を指すのが一般的である。多田等観は、1923年(大正12年)に次のように述べた。
  西蔵の境域は、東経七十八度から百三度、北緯二十七度から三十九度に至る地域を占めている。面積は大略七十五万マイル、日本全土(旧朝鮮、台湾を含む)の約二倍半である。南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東はインドシナ山脈、この三つの山脈によって押し上げられた高原国である。この地理的範囲は西蔵人が自分の国として考えている国土の面積である。青海や喀木(カム)をも併せた広い意味での面積である。支那では青海省や西康省を除外した部分を西蔵と称している。

チベット亡命政府
チベットを建国した吐蕃(7世紀 - 842年)は、上述のチベット民族の分布領域を全て支配下におき、さらにはその東西南北の隣接地域に進出を果たしていた。ガンデンポタンは、吐蕃時代の領域ではなく、グシ・ハン王朝時代(1642年 - 1724年)の統合領域を主張している。
グシ・ハン王朝(青海ホシュート)は、ダライ・ラマを信仰するオイラトの一部族ホシュートがチベットに移住して樹立した政権で、チベットの民族的分布領域の大部分を征服した。チベット国内に本拠を置く政権による統合としては、吐蕃以来の広大な範囲を誇る。この政権は、ヒマラヤ南沿地方に位置していたラダックブータンシッキムなどに対する征服ははたさず、結果として、現在、グシ・ハン王朝に征服された地域は中華人民共和国の支配下に、その他の諸地域は独立国(=ブータン)もしくはインド領、ネパール領となっている。
グーシ・ハーン(在位:1642年 - 1654年)が征服地の全てを当時のダライ・ラマ5世に寄進したという立場をとり、グーシ・ハーンとその子孫によって統合された領域を、あるべきチベット国家の領域としている。

中華人民共和国
中華人民共和国政府は、現在、西蔵の部分のみをもって「チベット」だと主張する立場を採っているが、中華民国の中国国民党政府など中国を統治していた歴代政府による「チベット」の枠組み、中国共産党によるチベット(及びその他の諸民族)に対する民族自決権に対する態度は、時期によって大きく変化してきた。中国共産党は、発足当初、ソ連コミンテルンの強い影響をうけ、「少数民族政策」としては、諸民族に対し、完全な民族自決権を承認していた。たとえば、中華ソビエト共和国の樹立を宣言した際には、その憲法において、各「少数民族」に対し民主自治邦を設立し、「中華連邦」に自由に加盟し、または離脱する権利を有すると定めていた。しかし、国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を設立した直前には、政治協商会議の「少数民族」委員たちに対し、「帝国主義からの分裂策動に対して付け入る隙を与えないため」に、「民族自決」を掲げないよう要請した。さらに現在では、各「少数民族」とその居住地が「歴史的に不可分の中国の一部分」と支配に都合の良い立場に転じ、民族自決権の主張を「分裂主義」と称して徹底的な弾圧の対象にするようになっている。
  中国共産党が、チベット社会とはじめて接触をもち、なにがしかの行政機構を樹立したのは、1934年-1936年にかけて行った長征の途上においてである。中華民国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強め、中共軍は各地の「革命根拠地」を放棄して移動し、最終的には陝西省の延安に拠点を据えた。この途上、カム地方西康省)の東部に割拠し、しばらくの間この地を拠点として行政機構や軍事組織の再編に取り組んだ時期があった。この時、中国共産党は、占拠した町々のチベット人たちに「波巴政府」(「波巴」はチベット語「bod pa(チベット人)」の音写)を樹立させ、1935年、これらの代表を集めて「波巴依得巴全国大会」を開催させ(波巴依得巴 = bod pa'i sde pa は「チベット人の政権」の意)、これらのチベット人政権を統合して「波巴人民共和国」および「波巴人民共和国中央政府」を発足させた。この「人民共和国」は、実際にはカム地方東部の人々のみで組織されたものであったが、国号や「全国大会」の呼称からも明らかなように、チベット人全体の「民主自治邦」として設立されたものであった。
  中華人民共和国の建国初期、それまで国民政府の支配下に置かれていたチベット人居住地域にはいくつかの「蔵族自治区」が設けられた。とくに1950年、カム地方のディチュ河以東の地に設立された「西康省蔵族自治区」は、一省の全域をチベット人の「自治区」と位置づけるものであった。しかしながら、1950年代半ば、これらのチベット人居住地域に「民主改革」「社会主義改造」を施す段階になって、従来の方針を変更、1955年、西康省は廃止されて州に格下げされ、カンゼ・チベット族自治州(甘孜蔵族自治州)として四川省に併合された。

婚姻制度
法律上は、一夫一婦制をとることは、中華人民共和国の共通である。しかし、チベットには一婦多夫制度が、慣行として一部に根強く残っている。この場合は、近親者の複数の男性が一人の女性を妻にすることが多く、一婦多夫で同居して共同生活を営む。

民族
チベットでは人口の95%前後をチベット族が占めている。チベットの全域にわたってチベット民族が居住するほか、東北部アムド地方の青海草原や、中央チベットのダム草原にはソク族(sog po, デート・モンゴル)、カム地方の北部(玉樹州、ナクチュ地区の東部)にはホル族と呼ばれるモンゴル系の遊牧民が居住する。またアムド地方の東端、中華人民共和国の行政区分で海東市とされる地方は、伝統的に漢人や回民、その他の諸民族が多数居住してきた河西回廊の一角を成す。

チベット問題(詳細は「チベット問題」を参照-「2008年のチベット騒乱」も参照)
中国のチベット支配にともなって発生した各種の問題を「チベット問題」ともいう。中国政府とチベット亡命政府の間で発生した過去の歴史認識、中国政府による「チベット統治の成果」に対する評価、また中国による多数のチベット人の人権侵害などについて議論がある。
ほか、中国のいわゆるパンダ外交については、 ジャイアントパンダの生息地として最大のものは四川省アバ(阿壩)・チベット族チャン族自治州にあるため、チベット人のなかには中国はチベットからパンダを奪い、「外交の道具」として使用しているとして批判するものもいる。
朝日新聞によれば、中国がチベットの独立を認めない理由のひとつに、チベット地域にあると推定される大量鉱物(推定資源価値は6500億元、日本円で10兆以上)の利権があるとされる。
2001年には、ベルギーフランスの漫画タンタンの冒険旅行シリーズ「タンタンチベットをゆく」の中国語版が「タンタン 中国のチベットをゆく」と題名を著作権者に無断で変えられたため、出版が一時停止された。
2008年、チベット騒乱が起こる。また、2011年にはチベット僧侶による中国政府への抗議の為の焼身自殺が相次ぎ、国際的に問題視されている。
中華人民共和国の支配に対するチベット人の抵抗運動についての詳細は「チベット独立運動」を参照。

中国による核関連施設
中国はチベット地域に核廃棄物処理場建設等を進めてきていたことが近年明らかになっており、中国側もこれらの施設の存在については現在は否定していない。
放射性廃棄物処理施設1992年の有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約では、輸入国の同意なしの有害廃棄物の輸出を禁止しているが、中国はこれに調印している。1993年の人権世界会議World Conference on Human Rights)により採択されたウィーン宣言及び行動計画では、「毒物および危険物質の不法投棄は、人類の人権、生命、そして健康を脅かす重大な問題となりうる」とされ、1998年の会議では「特定の工業国が有害廃棄物リサイクルによって利益を得ることがないようにしなくてはならない」とされたとき、中国はこれを支持した。
  一方で中国はチベット高原にチベット側に廃棄物を投棄してきた。1984年には、中国は60億ドルでヨーロッパの原子炉の4千トンの放射性廃棄物ゴビ砂漠に保管している。ダライ・ラマ法王は、中国政府が西欧諸国など海外の核廃棄物をチベットに投棄する計画について明らかにしている。ほかにも海外の廃棄物を中国が受け入れることについては、例えば1991年には米国メリーランド州ボルチモア市の下水汚物2万トンが中国に144万米ドルで輸出された。仲介した海南陽光グループは、中国の輸入規則では輸送に政府の承認は不要とした。しかし、米国ミルウォーキーの下水処理施設では汚染物質と筋萎縮性側索硬化症の発生との関連がグリーンピースらによって報告されるなど、廃棄物の汚染の危険性が抗議され、このチベットへの汚物輸送は中止となった。]
  中国は1991年4月、チベットにおける核兵器の配備と核廃棄物により核汚染が広がっているという主張に対し「全く根拠のない話」としたが、チベットへの核廃棄物投棄を認めている。中国核国営公社(China National Nuclear Corporation)のユー・ディーリャンは「中国は、89年から93年まで、多大な費用をかけ、閉鎖された核兵器基地の環境状況の厳重管理にあたった」と述べている。
  1993年 、リシュイ(Reshui)とガンズィ(Ganzihe)近辺で病気の発生率が異常に高いという、現地のチベット人医師タシ・ドルマの報告によると、「第九学会」と呼ばれる核基地付近で放牧していた遊牧民の子供たちのうち7人がガンで死亡した。1993年時点で中国は、甘粛省西側の乾燥地帯に初の放射性廃棄物投棄センター建設をはじめ、さらに中国南部、南西部、東部に建設を計画中であった。廃棄物の地層処分についても現在は深層処分が主流であるが浅層処分技術についても、中国は 「充分に安全」と考えている。高レベル放射性廃棄物(HLW)用地について、中国政府関係者は、「中国には広大な配分地区があり、用地を見つけることは困難ではない」とし、チベットは北京からも離れているため「核廃棄物を投棄するには最適」ともされる。
  1995年7月には、海北チベット族自治州のココノール湖附近に「20平方メートルに及ぶ放射性汚染物質用のごみ捨て場」があり、「軍の核施設(第九学会)により廃棄物は出たが、安全性は30年間完全に保たれ、環境への悪影響、基地で被爆者が出たことはない」と公式に発表した。しかし、核廃棄物が当初の保管の仕方、また現在の管理の仕方、および危険性の調査について詳細は公表されていない。
  1997年、北京のシンポジウムで中国は、台湾の核専門家に対し「台湾で累積される放射性廃棄物の投棄場を提供する。6万バレルの核廃棄物を引き取る」と申し出たが、台湾は断っている。
核ミサイル発射基地
チベット側の主張では、チベット四川省のツァイダム(二カ所)、テルリンカ、青海省と四川省の境界の四カ所にミサイル発射用地が整備されているとしている。また、ラサのドティ・プゥにもミサイルが格納されているとする。インドのバンガロールにあるジャーナリスト・カルナタカ組合による 「ジャーナリストとの対話」プログラムにおいてダライ・ラマ法王は、中国によるチベット核兵器工場建設について確実な情報を入手したと主張している。

2008年のチベット騒乱とその後の動向(詳細は「2008年のチベット騒乱」を参照)
2008年3月にはチベット全土でダライ・ラマ側のテロリズムの暴動が起き、中国の警察によって制圧された(2008年のチベット騒乱)。死者数203人、負傷者は1千人以上、5715人以上が拘束されたといわれる。ダライ・ラマは「中国は文化的虐殺ジェノサイド)を行っている」として中国政府を批判した。中国政府によるチベットのデモ弾圧に対しては世界各国より批判が集中した。しかしこの「暴動」(中国政府はデモでなく「暴動」と認定)を好機と捉えた中国政府は徹底的なチベット独立派への取り締まりを行い、ラサ市内に多く居住していたチベット独立派は壊滅的打撃を受けた。
「農奴解放記念日」問題
2009年1月19日のチベット自治区人民代表大会において、1959年のダライ・ラマ14世のインド逃亡後にチベットが中国に接収された事で、「それまで貴族に所有されていた農奴達が解放された事を記念する」として、3月28日を「農奴解放記念日」とする事を採択した。これに対してチベット亡命政府は「農奴解放」という言葉を使う事こそが反奴隷制度を正当化し、チベット貴族の感情を傷つけるものだとし、これに批判した。
チベット族高校生による暴動
2010年10月19日に、中国チベット族治州同仁県で、チベット民族の高校生、5千~9千人が、六つの高校から合流して暴動行進し、地元政府役場前で、「民族や文化の平等を要求する」などと叫び、中国語による教育押しつけに反発して街頭抗議を行った。近年の教育改革で、全教科を中国語とチベット語で履修することが義務化されたことに、生徒が反発したものとされる。
チベット人僧侶の抗議自殺
2011年3月に中国四川省アバ県で若い僧侶が焼身自殺を図ったのをきっかけにして、僧侶や市民による大規模な抗議活動が広がった[27]。その後もチベット人居住地域で、僧侶が焼身自殺した、焼身自殺はインドのチベット亡命政府の指示を受けたテロと判明した。

米国政府による声明とその後の動向
米国務省では同年11月4日の記者会見で、相次ぐチベット族僧侶らの焼身自殺に懸念を表明し、中国政府にチベット族に対する「非生産的な政策」を改めるよう要求していることを明らかにした。一方、中国政府は「焼身自殺はインドのチベット亡命政府の指示を受けたテロ」として非難している。また8月の焼身自殺事件で、抗議自殺した僧侶と一緒にいた僧侶は、自殺をそそのかしたとして教唆犯罪を問われ、懲役13年の判決を受けた。同年11月25日に人民日報ではダライ・ラマが焼身自殺を助長しているとする批判論評を掲載した。また、英国のガーディアン紙がチベット僧侶を庇護する論調の報道を行った事に対して、中国の駐英国大使館が「歪曲報道である」と書簡で抗議を行っている
  チベット問題に関してアメリカ合衆国政府は、2011年10月、米国上下両院と行政府共同「中国に関する議会・政府委員会」による年次報告を発表し、さらに2011年11月3日には、米国議会で、トム・ラントス人権委員会がチベットの人権弾圧について公聴会を開いた。この公聴会では、チベット人亡命者らの証言も聞かれ、共和党のイリアナ・ロスレイティネン委員長が民主党ハワード・バーマン議員とともに、言論の自由や宗教・思想の自由への弾圧や、妊娠中絶の強制などについて「中国の弾圧は前年よりも悪化した」とした。ほか、共和党のデービッド・リベラ議員は中国共産党指導部を「北京の殺戮者たち」と呼び、人道主義の普遍性から中国に強硬な姿勢を取ることを提唱した。また、議長の民主党ジム・マクガバン議員は「かつてチベット鎮圧策を担当した胡錦濤国家主席にまで抗議すべきだ」と発言、フランク・ウルフ議員は「チベットは本来、中国とは別の国家だった。その民族をいま中国当局は浄化しようとしている」と非難した。

2012年のチベット族による抗議自殺
2012年1月6日、チベット人の男性と僧侶2名が中国政府の統治に抗議してそれぞれ焼身自殺を行った。僧侶は死亡、男性の容態は不明である。2011年3月から数えて、チベット人の抗議の焼身自殺は14人となった。また、1月8日には40代の転生ラマであるソナム・ワンギャルが、青海省ゴロク・チベット族自治州ダルラック県警察署前で、焼身自殺を行った。遺体を押収した中国当局警察に対して、2000人のチベット人が抗議デモを行い、遺体の返還を要求した。当局は返還に応じたが、チベット族は、ソナム・ワンギャルを讃えるポスターを張るなどの行動をとった。
翌1月9日、アメリカ国務省報道官は「チベットで新たに3人の焼身があったことは、米国にとっての深刻な懸念」と声明を発表した
また、1月14日、ンガバで、若いチベット人が焼身自殺を行ったが、遺体を押収した当局警察は遺体に対して足蹴にし殴打した。これに怒ったチベット族およそ100人が抗議するが、中国武装警察は発砲、2名のチベット人が撃たれている。
中国系情報機関によるダライ・ラマ14世の暗殺計画
2012年1月7日、インド新聞ザ・タイムズ・オブ・インディアは、西部ムンバイの警察が、中国国籍のチベット人ら6人のスパイがチベット自治区からインド国内に侵入してダライ・ラマ14世を暗殺するという情報を入手、インド亡命中のダライ・ラマ14世の警備体制を強化する方針を決定したと報じた。ムンバイ警察は中国系情報機関の要員であるとした 
なお、ジャーナリストの有本香は、このリークについて、ダライラマによる灌頂(後述)に際して、「参加者を装って多数潜入したであろう中国側の全工作員に対する、インド当局の牽制の意を込めたリークによるもの」としている
中国警察による発砲事件とチベット族による破壊行為
2012年1月、中国政府はチベット族に対して、旧正月をチベット式でなく、中国式で祝うように指示をした。また正月直前の1月22日から毛沢東鄧小平江沢民胡錦濤ら歴代4人の肖像画を100万枚、チベット自治区の寺院や家庭に配布している。
このような中国政府の指示に怒ったチベット族は、同年1月23日、四川省カンゼ・チベット族自治州炉霍県(タンゴ)でチベット族が抗議デモを行った自由チベットによると、中国人民武装警察部隊はこのデモを阻止するために、無差別発砲を行い、この発砲で、2名から6名が死亡し、60人以上が負傷した。在インドの僧侶イシェ・サンポによれば、「最初、数百人のグループがチベットの自由とダライ・ラマ法王の帰還を求めるスローガンを叫びながら行進を始めた。デモ隊が地元警察署前に差し掛かった時、警官が発砲。その場で2人が撃たれ死んだ」「デモは23日の朝に始まり今(現地時間午後3時半)も続いている。デモ参加者たちは破壊行為も行った。周辺にあった中国の店や中国関係の施設を壊した」という。新華社通信によれば、デモ隊の一部は刃物を持ち、当直の人民警察と武装警察に投石し、公安派出所を襲撃し、警察車両2台と消防車2台を破壊し、商店や銀行ATMを打ち壊した。武装警察の発砲に対して抗議するデモ参加者は5000人規模となった。同23日、四川省アバ・チベット族チャン族自治州アバ県では、真言宗を唱える僧侶らのデモ行進を治安部隊が妨害し、暴行を加えた
この事件について、中国外務省の洪磊副報道局長は翌日の24日、「真実を歪曲し、中国政府の信用を傷つけようとする海外の分裂主義者の試みは成功しない」とチベット族およびチベット亡命政府を非難する談話を発表した。
同1月24日、色達県(セルタ)でもチベット族のデモ隊と中国当局の治安部隊が衝突し、数十人が被弾し、亡命政府発表では5人が死亡した[37]。この事件に先立ち、22日と23日にも小規模な抗議デモが行われていたが、両日のデモは鎮圧されることはなかった。
また、ダラムサラ・キルティ僧院によれば、23日にアムド、ンガバのメウルメ郷でナムツォ僧院僧侶を中心に約100人が平和的デモを行った。これに対し、当局は大勢の武装警官と軍隊を派遣。デモ参加者を殴打し、多くの参加者を拘束したという。
2012年1月24日、米国務省オテロ国務次官(チベット問題担当調整官)は、同23日に発生した中国四川省でのチベット族住民への中国の治安部隊による発砲、および、チベット僧侶の抗議の意を込めた焼身自殺を受けて、「深刻な懸念」を表明し、中国政府によるチベット政策を「チベット族の宗教や文化、言語の存続を脅かす非生産的な政策」としたうえで、チベット族の人権尊重と中国武装警察隊への自制を要求した
同26日、アバ県に近い壌塘県(ザムタン)で、チベット族の群衆に向かって中国当局警察が発砲し、1人が死亡した。
なお、中国の大衆からは、チベット人に対する同情の声はほとんどあがっていないとされる。他方、同年1月にインドのブッダガヤダライ・ラマ法王によって行われたカーラチャクラ灌頂には、中国人が1,500人も参加している。なお、この行事に参加するチベット人を制限するために、中国政府は、チベット族へのパスポート発給を停止したが、実際には8,000人のチベット人が灌頂を受けた。

日本との関係
チベットと日本の関係は、チベット仏教の研究からはじまっている。1899年寺本婉雅が、 能海寛とともにバタンに入るがここから先に進めずに引き返す。1901年(明治34年)3月に河口慧海が日本人で初めてラサに入る(ただし、身の保全のため中国の僧侶と偽った)。1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の報告はセンセーションを巻き起こした一方で、当初はその真偽を疑われた。英訳が1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行された。
同1901年(明治34年)、探検家成田安輝がラサ入りしている。
1904年、寺本が ラサに到達し、1908年にはロックヒル大谷尊由と共に五台山にてダライ・ラマ13世と会見している。
1909年には多田等観がインドでダライ・ラマ13世に謁見。その場でトゥプテン・ゲンツェンという名前を授かり、ラサにくるようにと要請を受け、のち多田はラサでチベット仏教の修行を行う。
1911年(明治44年)3月4日、軍人で探検家の矢島保治郎がラサ入り。矢島は後にチベットの軍事顧問となる。
1912年には青木文教がラサ入りをした。雪山獅子旗のデザインに関与したともいわれる。1939年には野元甚蔵がチベットに滞在。
  関岡英之によれば、大日本帝国陸軍は、満州モンゴルウイグル、チベットやイスラム教勢力などを支援することによって、ソ連や中国共産党などの共産主義勢力を包囲する戦略として「防共回廊」政策があったと指摘している。大日本回教協会を創設した林銑十郎や、板垣征四郎らが推進したといわれる。関東軍は満州を中心に、土肥原賢二らのハルビン特務機関がシベリアでの諜報活動、板垣征四郎少将率いる奉天特務機関が華北分治工作松室孝良ら承徳特務機関が内蒙工作を展開するという三正面作戦を構えたとされ、このうち松室孝良は1934年2月に「満州国隣接地方占領地統治案」を起案し、そのなかで満州、モンゴル、イスラム、チベットの環状連盟を提唱した。大日本帝国時代の諜報員に、西川一三がおり、 1945年に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行した。戦後、インドを経て帰国した。ほかに木村肥佐夫も同様に諜報員としてチベットに入った。西川、木村にチベット入りを指示したのは東条英機であった
  戦後、日本は1972年9月29日日中共同声明、及び1978年8月12日日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。その際、中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中外交の基本姿勢としているため、チベット亡命政府を認知していない。そのため、ダライ・ラマ法王が2008年のチベット騒乱後、来日した際にも公式に日本政府が会見することはなかった。また、2012年2月現在、2011年、2012年のチベット族による抗議自殺についても表明は行っていない。
  戦後の研究では、川喜田二郎山口瑞鳳今枝由郎によるチベット学、中沢新一によるチベット宗教学研究などがある。市民運動では、TSNJ酒井信彦(自由チベット協議会代表)らがいる。
中沢新一はチベット問題についてたびたび発言をしており、「中国はダライ・ラマを受け入れるとき、はじめて真の発展をとげることができるが、拒絶すれば、中国人の魂は市場経済のなかに、沈んでいってしまうだろう」と述べたり、また、ペマ・ギャルポとの対談[48]でも中国が市場経済にソフトランディングしていこうとしているが、独裁政権と市場経済は両立しないとしたうえで「これをどういう方向でソフトランディングしていくかは、中国人だけでは解決不能だと思います。拡大していく市場というのは国際的な問題ですから、世界中の人間が知恵を出し合わないとこれは不可能でしょう」
10億の民を包みこんでいる中国が崩壊したり解体したりすると、これは地球大的に悲惨なことが起こる。わたしたちはそれを求めないし、ダライラマ猊下もそんなことは求めない。ただそれを行うためには、いろんな形で私たちが智慧を出し合い、干渉をおこなっていかなければならないと思います」と述べるなどしている。


チベット自治区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



新疆ウイグル自治区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新疆ウイグル自治区 Shinjang Uyghur Aptonom Rayoni新疆維吾爾自治区)は、中華人民共和国の西端にある自治区である。1955年に設立され、首府は烏魯木斉(ウルムチ)である。民族構成はウイグル族のほか、漢族カザフ族キルギス族モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間UTC+8)より2時間遅れの新疆時間UTC+6)が使われている
歴史
清朝以前
古代中国から西域と呼ばれたこの地域は中央アジアや中国との政治的・経済的な繋がりを古くから有し、オアシス都市国家が繁栄し、代と代には、中国の直接支配下に置かれた時期もあった。
隋煬帝大業五年(609年)、楊広が自ら隋軍を指揮して吐谷渾を征服、今の新疆南東部を実効支配し始めた。中原王朝が西域の実効支配もその時期から始めた。
唐太宗貞観十四年(640年)、唐軍が高昌を占領し、西州を設置した。また可汗浮図城において庭州を設置した。同じ年、高昌で安西都護府を設置。後庫車へ遷し、安西大都護府へ転換。
  唐代後期、ウイグル帝国の支配下に入り、9世紀、ウイグル帝国が瓦解したのちも、ウイグル人の残存勢力による支配が続いた。
13世紀、モンゴル帝国の勃興によりその支配下に組み込まれ、チャガタイとその子孫による支配が行われた。16世紀に至りヤルカンド汗国が地域を統一したが、17世紀末ジュンガルに征服された。
清朝
1755年にジュンガルにおける清朝の領域はほぼ確実なものとなった。 1775年以降、ジュンガル征服(清・ジュンガル戦争)にともなってその支配下に入るに至り、「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、「故土新帰」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)などと清朝側から呼ばれた。19世紀には各地で反清反乱が相継ぎ、ヤクブ・ベクの乱によって清朝の支配は崩れたが、左宗棠により再征服され、1884年中国内地並の省制がひかれて新疆省となった。
中華民国以降
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。これに対して1933年1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦で東トルキスタン共和国のセイプディン・エズィズィと新疆省のブルハン・シャヒディらが中国共産党に帰順したことでこの地域は中国人民解放軍が展開し、1955年新疆ウイグル自治区が設置された。
  大躍進政策とその影響による飢饉のため、中国全土で数千万人ともいわれる、大規模な死者を出した。自治区の経済及び住民生活も大打撃を受けた。1962年には、中国共産党による支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上がソ連領内に逃亡した。また、1966年には自治区内に文化大革命が波及。こと文革に関しては、少数民族を多く抱える同自治区の闘争は中国の他地域と比較してある程度は抑制されていたというが、それでも一部で行なわれたモスクの破壊や紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかった。
1980年代以降
文化大革命が終結し、言論統制の緩和がなされた1980年代から1990年代には、ウイグル族住民の中で、グルジャ事件など新疆ウイグル自治区における民族自治の拡大を求める動きが見られた。また、国外の汎トルコ主義者が独立を主張する動きも見られた。しかし、2001年のアメリカ同時多発テロを契機に世界的に反イスラムの潮流が強まったことに後押しされ、特に2014年のウルムチ駅爆発事件以降「テロとの戦い」(厳厲打撃暴力恐怖活動専項行動、厳打高圧)を名目に当局は新疆ウイグル再教育キャンプなど徹底的な管理統制の構築に乗り出し、様々なハイテク技術を用いて一挙手一投足を住民は監視されていることから「世界でも類のない警察国家」「完全監視社会の実験場」が築かれてると欧米メディアや人権団体は批判している。
中華民国の主張
中華民国台湾)は、中国共産党の実効支配を認めず、新疆ウイグル自治区を新疆省と呼称しており、自国領土だと主張している。
地理
  新疆ウイグル自治区の面積165万km2は中国の省・自治区の中で最大であり、中国全土の約1/6を占める(日本の約4.5倍)。ただし、面積の約4分の1は砂漠が占めており、これは中国の砂漠総面積の約3分の2に相当する。
  新疆ウイグル自治区は中国の最西部に位置しており、東部から南部にかけて、それぞれ甘粛省青海省西蔵自治区と省界を接している。また、インドパキスタンアフガニスタンタジキスタンキルギスカザフスタンロシア連邦モンゴル国の8カ国と国境を接し、国境線の総延長は約5,700kmに達する。国境を接する国の数は、中国の行政区分で最大である。ユーラシア大陸到達不能極に位置する。
  天山山脈は中央アジアと東アジアの自然国境とされ、カラコルム山脈は西南アジアと東アジアの自然国境とされる。カラコルム山脈は急峻な山々が峰を連ね、パキスタン国境にあるK2は海抜 8,611 メートルに達するエベレストに次ぐ世界最高峰である。
  1931年8月11日、新疆ウイグル自治区北部でM8の地震が発生。地震研究のための貴重な資料として、当時の地震断層や地形の変化がそのままの状態で残されている。2007年4月19日、断層の保護作業が終了した。
住民
総人口は約1,900万人で、その3分の2は漢族以外の少数民族である。自治区内の住民はウイグル族、漢族のほか、カザフ族回族キルギス族オイラト族(カルムイク族)(民族区分ではモンゴル族)などの様々な民族で構成される。また、カザフ族キルギス族タジク族ウズベク族など、隣接する旧ソ連領中央アジア諸国と国境を跨って居住する民族も少なくない。
漢族の大量入植
自治区の北部・東部を中心に居住する漢族は、1954年に設立された新疆生産建設兵団を中心に、1950年代以降に入植した住民が大半を占め、急速にその数を増やしている。中国政府の公表する人口統計には、軍人の数が含まれていないことから、実際の人口比では、漢族の人口はウイグル族を上回っていると推測されている。2003年の兵団総人口は257.9万人である
1990年時点で新疆ウイグル自治区の総数が1499万人のうち、漢族が565万人。1995年には、総人口1661万人のうち漢族が632万人と、5年間で漢族人口は67万人も増加している。2000年には、漢族人口は約749万人となっており、5年間で117万人も増加しており、10年間で184万人の漢族が新疆ウイグル自治区において増加している。
経済
第一次産業としては、小麦綿花テンサイブドウハミウリヒツジ、イリなどが主要な生産物となっている。特にこの地域で生産される新疆綿といわれる綿は、エジプト綿(ギザ綿)、スーピマ綿と並んで世界三大高級コットンと呼ばれ、繊維が長く光沢があり高級品とされており、日米欧に輸出され高級シャツ、高級シーツなどに利用される。また、中国四大宝石の中で最高とされる和田玉ホータン市で産出される。この他、石油と天然ガスなどのエネルギー資源産業をはじめ、鉄鋼、化学、機械、毛織物、皮革工業が発達している。主要な工業地域として烏魯木斉、克拉瑪依、石河子(シーホーツ)、伊寧(イーニン)、喀什(カシュガル)が挙げられる。
エネルギー資源の影響で内陸部の割には2002年から2013年にかけて新疆の平均成長率は15%を超え、特に中国最大級の油田があるカラマイは2008年には一人当たりのGDPが中国本土で最も高い都市となった。
省都のウルムチは200万人を超える人口規模で中央アジア最大の都市タシュケントに匹敵し、中国北西部および中央アジアで最も高いビル[12]である中信銀行大廈(旧・中天広場)などの高層ビルで街並みは沿岸部の大都市のように近代化されている
資源
新疆は石油天然ガスの埋蔵量が豊富で、これまでに38カ所の油田、天然ガス田が発見されている。新疆の油田としては塔里木(タリム)油田準噶爾(ジュンガル)油田吐哈(トゥハ)油田が3大油田とされ、独山子(トゥーシャンツー)、烏魯木斉(ウルムチ)、克拉瑪依(カラマイ)、庫車(クチャ)、塔里木の5大精油工場で原油精製も行われている。
新疆の石油と天然ガスの埋蔵量は、それぞれ中国全体の埋蔵量の28%と33%を占めており、今日では油田開発が新疆の経済発展の中心となっている。特に、西部大開発政策開始以降は、パイプライン敷設や送電線建設などが活発化している。これには、中国国内最大の油田であった黒竜江省大慶油田の生産量が近年では減少してきたために、新疆の油田の重要性が相対的に増していることも関連している。
砂漠化
新疆ウイグル自治区には、タクラマカン砂漠があるが、近年、過放牧によって草原が荒れて、砂漠化が進行している。その理由は、タリム盆地周縁のオアシス人口の急激な人口増加によるとされる[15]。漢族の急激な入植による人口増加が主な原因とされる
タクラマカン砂漠やゴビ砂漠(中国北部 内モンゴル・甘粛・寧夏・陝西)、黄土高原などにおける砂漠などは、黄砂の飛翔原でもあり、黄砂は日本を含む東アジアの広い範囲に被害を及ぼしている。
核実験場(「中国の核実験」および「東トルキスタン#中国による核実験」も参照)
新疆ウイグル自治区ではロプノール核実験場の付近を中心に、1964年から46回の中国による核実験が行われており、放射能汚染による地域住民の健康状態や、農作物への被害が指摘されている。
ウイグルの独立運動(詳細は「東トルキスタン独立運動」を参照)
世界ウイグル会議日本・東アジア全権代表を務めていたトゥール・ムハメットによると、中華人民共和国のウイグル族は、下等市民あるいは人間以下とみなされ、市民同士はトラブルを怖れて接触したがらないという。2013年10月末には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ自動車で北京の天安門に突入し自爆する事件も起こった(天安門広場自動車突入事件)。
2009年のウイグル騒乱(詳細は「2009年ウイグル騒乱」を参照)
2009年にはウイグル人の暴動が発生。武装警察の介入もあって、世界ウイグル会議によると死者三千人、中国当局によると死者156人となる惨事となった,、 主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)に参加するためにイタリアを訪問していた胡錦濤(中国共産党総書記)が「新疆ウイグル自治区の情勢」を理由にサミットをキャンセルして三日後に急遽帰国するにまでに至った








このTopに戻る










monomousu   もの申す
最近のニュース
TOPにもどる
座標: 北緯43度49分30秒 東経87度36分00秒