アメリカ同時多発テロ

アメリカ同時多発テロ事件
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アメリカ同時多発テロ事件: September 11 attacks)とは、2001年9月11日アメリカ合衆国で同時多発的に実行された、
     イスラム過激派テロ組織アルカイダによる4つのテロ攻撃の総称である[4][5][6]。一連のテロ攻撃による死者は2996人、負傷者は6000人以上であり、 
     インフラ等への物理的損害による被害額は最低でも100億ドルとされている[7][8]
  この事件を契機として、国際テロ組織の脅威が世界的に認識されるようになり、アメリカはテロとのグローバル戦争(GWOT: Global War on Terrorism)の
     標語を掲げ始め、アメリカ合衆国と有志連合はアルカイダやアルカイダに支援を行った国への報復としてアフガニスタン紛争イラク戦争を行った。
     さらには、その後に続くISIL等のイスラム過激派を相手取った対テロ戦争の本格的な起点にもなった。航空機のマンハッタン超高層ビルへの
     大規模衝突事件としては、1945年エンパイア・ステート・ビルディングへのB-25激突事故以来となった。
名称
  日本では、この事件における日本語の略称として、「同時多発テロ」「米中枢同時テロ」「9・11テロ」「9・11事件と呼ぶ。ただし、2005年7月7日ロンドン
     ロンドン同時爆破事件が発生したので、2001年の事件を「アメリカ同時多発テロ事件」「9・11テロ」と呼ぶことが増えた。広辞苑には、
     「九-一一事件(きゅういちいち-じけん)」と記載されている。
  アメリカ合衆国やイギリスなどの英語メディアでは、この事件を September 11 attacks(9月11日攻撃)、September 11September 11th9/11 (nine eleven)、
     と呼ぶ。なお、このアメリカ同時多発テロ以後の時代を指す場合には、「post-2001」よりも「post-9/11」の方が用いられている。
  なお、チリで「9/11」と呼ぶ場合は、1973年9月11日に起きた『チリ・クーデター』を指す。この2001年のアメリカの事件と1973年のチリの事件を区別する際には、
     「9・11テロ」や「9・11クーデター」、或いは「アメリカの9・11」や「チリの9・11」などと呼んで区別する
ハイジャックされた旅客機
  2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストンバージニア州ダレス(ワシントンD.C.近郊)、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の
     旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室に侵入し、パイロットを殺害した後、
     自ら操縦して、2機(アメリカン航空11便、ユナイテッド航空175便)をニューヨークマンハッタンへ、残り2機(アメリカン航空77便、ユナイテッド航空93便)を
     ワシントンD.C.へ向かわせた[9][10]
  なお、乗っ取られた4機のうち2機がアメリカ合衆国ボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機である。この2種類の機体は、
     運行する航空会社パイロットに互換性を持たせるために、コックピットの操縦システムは基本的に同じ物が使われており、いずれも2人のみで操縦
     できるため、意図してこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと考えられている。
  また、実行犯のリーダー、モハメド・アタをはじめとする一部のハイジャック犯たちは、アメリカ合衆国国内にある民間の航空学校=ホフマン飛行機学校[11]
     小型機の自家用操縦免許を取得した後に、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている[12]
  これら4機がいずれも北米大陸横断ルートという、アメリカ合衆国国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛行する便であったのは、長距離便のために
     燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測する者[要出典]もいる。なお、ハイジャックされて激突・墜落させられた旅客機の
     乗客・乗員は全員死亡している[13]

アメリカン航空11便
詳細は「アメリカン航空11便テロ事件」を参照

  ボストンロサンゼルス行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200ER型機・機体記号N334AA)は、乗客81名・乗員11名を乗せ、午前8時00分頃に
     ローガン国際空港を離陸し、ロサンゼルス国際空港に向かった[14][15]。その後、11便は午前8時14分頃に始められたハイジャックにより、コックピットを
     乗っ取られた[16]
  11便は午前8時27分に進路を南向きに変え、午前8時46分にニューヨークロウアーマンハッタンワールドトレードセンター・ツインタワー北棟(110階建)に突入し
     爆発炎上した[17][16]。角度、速度ともに浅い離着陸時の事故と違い、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。
     11便がワールドトレードセンター北棟に衝突する瞬間は、フランス人映像作家のノーデ兄弟英語版によって偶然撮影されていた[18]
ユナイテッド航空175便
ユナイテッド航空のボーイング767-200(N612UA)
詳細は「ユナイテッド航空175便テロ事件」を参照

ボストン発ロサンゼルス行きユナイテッド航空175便(ボーイング767-200ER型機・機体記号N612UA)は、乗客56名・乗員9名を乗せ、午前8時14分にローガン国際空港を離陸し(アメリカン航空11便でのハイジャック発生とほぼ同時)、ロサンゼルス国際空港に向かった[19][20]。午前8時42分頃、175便のパイロットは離陸直後に耳にした不審な内容の無線(ハイジャックされたアメリカン航空11便からの無線だった)について管制官に報告したが、それから午前8時46分までの間に175便もハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた[16]。その後、175便は午前8時58分にニューヨークへ進路を変え、午前9時03分にワールドトレードセンター・ツインタワー南棟(110階建)に突入し爆発炎上した[16][17]。南棟では北棟の爆発を受けて多くの人が避難を開始していたため、人的被害は北棟に比べて少なかったが、衝突による構造へのダメージはより大きく、先に突入を受けた北棟より早く南棟が崩壊している[21]
11便の突入とは異なり、175便の突入では数多くの映像と写真が記録された[22]。なお、105階に居たエーオン副社長の男性(南棟の崩壊時に死亡)が、南棟が崩壊する瞬間まで911番へ電話で状況を伝えていた音声が録音されており[23]、この録音はザカリアス・ムサウイの裁判において証拠として用いられた[24]

アメリカン航空77便
詳細は「アメリカン航空77便テロ事件」を参照

ニューアークニューアーク空港)発サンフランシスコサンフランシスコ国際空港)行きユナイテッド航空93便(ボーイング757-200、機体記号N591UA)は、午前8時42分、乗客37名(日本人1名を含む)(乗客37名中4人はテロリスト)・乗員7名を乗せて、滑走路の混雑で30分遅延で出発した。93便離陸の僅か数分後、アメリカン航空11便が世界貿易センター北棟に激突した。乗客の機内電話からの通報によると、午前9時27分にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られた。オハイオ州クリーブランド付近で進路を南に変え、さらに南東へ向かった。ワシントンD.C.へ向かうことを管制官に通告、標的はアメリカ合衆国議会議事堂ホワイトハウスであったと推測されている。午前9時57分、機内電話や携帯電話による外部との連絡で、ハイジャックの目的を自爆テロと認識した乗客が機の奪還に乗り出す。その僅か数分後、ワールドトレードセンター・ツインタワー南棟が完全崩壊した。午前10時03分、93便は、490ノット(時速563マイル、時速907km)の速度でペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィル(ワシントンD.C.北西240kmの場所)に墜落した。[25]離着陸時の速度の倍以上の高速で地上に衝突したため、機体の残骸はほとんど原形を留めていなかった。なお、地震計のデータから墜落の時刻を午前10時6分と公式記録と異なる報告がなされたが、後にこの時刻を算出した地震学者本人により撤回されている。乗客たちがハイジャッカーたちに反撃した際に「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合図にしたと言われている。この「Let's Roll」は、9・11事件以降のアフガニスタンへの「報復戦争」において一種のスローガンとして用いられた[26]。9・11事件の調査委員会は乗客はコックピット内に進入できなかったと結論づけているが[16]、一部の遺族はCVR音声に乗客がコックピットに進入した証拠が記録されていると主張している[27]。なお、離陸からハイジャック、墜落までの乗員乗客の行動を基にした映画『ユナイテッド93』が2006年に公開された[28]

被害
ワールドトレードセンター(WTC)

午前8時46分40秒、ハイジャックされたアメリカン航空11便がワールドトレードセンター北棟 (1 WTC)の北面に突入した[30]。旅客機は北棟の93階-99階を切り裂くように衝突し、数百人が即死した。11便に搭載されていたジェット燃料によって北棟の高層階では爆発的な火災が起こり、引火した燃料がエレベーターシャフトを通じて落下したことで地上ロビーのような低層階でも爆発が発生した[31][32]。衝突から10分が経たないうちに、火災と黒煙は上層階に広がり始めた。8時52分には、熱と煙、炎による耐え難い苦痛により、高層階から飛び降りる人々も現れた[33][34]。この時点では、北棟への航空機の突入は(テロ攻撃ではなく)事故であるとの見方が大勢を占めていた[35]。当時の大統領ジョージ・W・ブッシュも第一報を受けて「これはパイロットエラーによる事故だ」と発言した[36]

午前9時02分59秒、ハイジャックされたユナイテッド航空175便がワールドトレードセンター南棟(2 WTC)の南面に突入し、南棟は爆発炎上した[37]。航空機は機体を傾けながら77階-85階にかけて衝突しており、78階のスカイロビー英語版で避難のためエレベーターを待っていた数百人の多くが即死、または重傷を負った[38]。この衝突によって南棟が負った構造的ダメージは、北棟と比較してより深刻だった[21]。2機目のジェット機が南棟に衝突した瞬間は多数のカメラによって捉えられた[39]。この時点で、一連の出来事が事故ではなく故意に起こされた攻撃であることが広く認識された[35][36]

午前9時37分、ペンタゴンにハイジャックされた旅客機(アメリカン航空77便)が突入した[40]。9時42分、連邦航空局(FAA)はアメリカ合衆国大陸部内のすべての民間航空機を離陸禁止とし、すでに飛行中の民間機にはただちに着陸するよう指示した[16]

午前9時59分、ユナイテッド航空175便の突入から56分後、ワールドトレードセンター南棟が崩壊した[41][42]。その直後の10時03分11秒、ハイジャックされたユナイテッド航空93便がペンシルベニア州で墜落した[43]。10時28分、アメリカン航空11便の突入から102分後、南棟に続きワールドトレードセンター北棟が崩壊した[41][42]。ワールドトレードセンターのツインタワーは、航空機の衝突による大規模な構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱で構造部材(鉄骨柱・床トラス部材等)の強度が著しく低下したことで崩壊したと考えられている[44][45]アメリカ国立標準技術研究所の報告書によれば、火災によるダメージは(ジェット燃料ではなく)主にオフィス内の可燃物によるものであり、それらの可燃物が火災を増長しなければ、ツインタワーは崩壊を免れていた可能性がある[46]。ツインタワーは、建設当時に世界最大のジェット旅客機であったボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたが、漏れ出したジェット燃料とそれによる大規模火災の影響は設計上考慮されていなかった[44]。北棟の崩壊時、瓦礫が隣接する7 ワールドトレードセンタービル(7 WTC)に降り注ぎ、7 ワールドトレードセンターは損傷、さらに火災が発生した。火災が数時間にわたって持続したことにより、ビルの構造的健全性は失われた。午後5時21分、7 ワールドトレードセンターは倒壊した[47][48]

WTCの人的被害












ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害
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概要
 アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンは、アメリカ合衆国連邦政府によって、2001年9月11日(以下、日付・時間はいずれもアメリカ東部夏時間 (EDT) 
     に発生したアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、それ以来アメリカにとってビン・ラーディンを抹殺することが一つの大きな目標となった。
  アメリカ合衆国による大規模な捜索にもかかわらず、拘束することができないまま10年近くが経過したが、2011年5月2日(米国東部夏時間5月1日)、
     パキスタンにおいてアメリカ軍によってウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認され、2001年以来続いてきた対テロ戦争は一つの節目を迎えることとなった。
  複数のメディアが、深夜の時間帯にもかかわらず、ビン・ラーディンが死亡したニュースを一斉に報道した。約一時間後、オバマ大統領ホワイトハウスから
     会見を行い、ウサーマ・ビン・ラーディンが同日、パキスタンの首都イスラマバードから約60km北東にある地方都市アボッターバードの潜伏先と
     見られていた豪邸で、アメリカ軍の作戦により殺害されたことを全国テレビ中継で公式発表した[1][2]
経緯
  2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生し、アメリカ合衆国連邦政府アフガニスタンターリバーン政権に対して、首謀者である
     ウサーマ・ビン・ラーディンの身柄引き渡しを要求。しかしターリバーン政権は要求を拒否し、同年10月7日にアフガン戦争が開始された。
  ターリバーン政権は打倒されたが、ビン・ラーディンの行方は戦争開始以降わからなくなり、このためアメリカ軍はアフガニスタンと隣国パキスタンとの
     国境地帯にある山岳などを捜索してきた。しかし、ビン・ラーディンの行方は判明しなかった[3]
  対テロ戦争を始めたアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ政権が、2009年1月にバラク・オバマ政権に交代した後も、ビン・ラーディンの捜索は続き、
     アメリカ中央情報局 (CIA) がビン・ラーディンの連絡係を担う男性の動きを追う中で、ビン・ラーディン配下の連絡係であり、グァンタナモ収容所に収容
     されているハリド・シェイク・モハメドの元部下の身元特定に成功したことが、捕捉の端緒となった。
  2010年8月頃、アボッターバードに居住するこの連絡係とその兄弟の行動分析から、CIAは2010年9月には同市郊外の厳重に警護された邸宅に、
     ある「重要な人物」が潜伏していると推定し、さらに2011年2月にはビン・ラーディンがここに潜伏しているとの証拠を得るに至った[4]。これと相前後して、
     情報を得たレオン・パネッタCIA長官は、統合特殊作戦コマンド司令官であったウィリアム・マクレイヴン海軍中将に連絡を取った[5]
  アボッターバードは、パキスタン陸軍の拠点であり、ビン・ラーディンの住居は、パキスタンの陸軍士官学校とは至近距離にあったことから、英国放送協会(BBC)
     はパキスタン軍統合情報局(ISI)がビン・ラーディンの身柄隠匿に何らかの関係があったのではないか、と報じている[4][6][7]。この情報はオバマ大統領
     にも報告された[8]
  これはアメリカ合衆国連邦政府内でも、極限られた人間のみが知りうる最高機密情報として取り扱われた。その後も調査は続き、2011年3月中旬から4月28日
     にかけて、担当者とオバマ大統領のみが出席した国家安全保障会議が5-6回開催される[4]。オバマは5回目の会議翌日の4月29日に、
     作戦決行の許可を出した[8]
  作戦名は「ネプチューン・スピア(海神の槍)作戦 - Operation ''Neptune Spear''」とされ[9]、作戦の中ではビン・ラーディンの名はコードネームジェロニモ
     に置き換えられた[10]
潜伏先
  ビン・ラーディンが潜んでいた邸宅は3階建ての豪邸で、2005年頃に完成した。敷地の周辺は3メートルから5.5メートルもの高さの有刺鉄線に覆われた塀に囲まれ
     ており、豪邸に行くための通路には二重ゲートとなっているほか、入り口には見張りがつけられ、外部から内部の様子を容易に見えないようにする工夫
     がなされていた[11]。周辺の家の約8倍もの広さを持ち[12]、その価値は100万ドルを越えるとも言われる[4]。なお、邸宅はイスラム過激派に聖地化される
     ことのないよう、2012年2月25日より取り壊しが開始された[13]
ネプチューン・スピア作戦
  2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり[14]、生け捕りはほぼ想定されていなかった[15]
  一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍特殊部隊 Navy SEALs を中心とした約15人(25人説もあり)のメンバーは[15]、SEALsから派生した
     対テロリスト特殊部隊「DEVGRU」(デブグルー:海軍特殊戦開発グループ:旧SEAL Team6)のメンバーであったとされている[16][17][18]
  隊員達は、情報担当のCIA要員が同乗するステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機に分乗して(これらのヘリは
     「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当したとされる[18])、ビン・ラーディンと、その家族がいると推定された建物の
     敷地内に、ロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入した[10]
  側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧した。ビン・ラーディンは武器を持っておらず[19]、応戦したともしなかったとも報じられ[15]、頭部と胸部
     を撃ちぬかれ死亡。米軍は遺体を収容した[20]。他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。
     女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された[21]。アメリカ軍側に人的損害は出なかった[14]。その死は
     パキスタン政府当局によっても確認されている[22]
  作戦中、ホバリングしていたアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプター1機が揚力を失い墜落したため[18]、爆破処理されるというトラブルはあったが、
     すぐに代替のチヌーク・ヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。
  作戦は、アメリカ本国でもホワイトハウスのシチュエーションルームでオバマ大統領のほか、バイデン副大統領ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、
     マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており[23]、またCIA本部の会議室でも、パネッタ長官らがリアルタイムで監視していた[14]
     いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている[23][24]。作戦成功の報をパネッタ
     より受けたオバマは ''We got Him'' (奴を捕えた) と叫んだという[10]

アメリカ合衆国は、この作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有
     しなかったとされる。このためパキスタンのムシャラフ前大統領は、アメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している[25]
  ビン・ラーディンの死亡は、アメリカのCNNによって一報が伝えられ[26]、全世界のメディアも追随することとなった。その直後の5月1日午後11時半過ぎから
     オバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。
     全国テレビ中継を通じて ''Justice has been done'' (正義はなされた) と宣言した[27]。このニュースが伝わると首都ワシントンホワイトハウス周辺
     やニューヨークワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。

水葬の是非
 遺体はアメリカ軍によって、複数の親族とのDNA型鑑定の照合によりビン・ラーディン本人と確認された(マサチューセッツ州ボストンでビン・ラーディンの妹
   が脳腫瘍で数年前に死亡しており、FBIはその細胞と血液を保存していた[47])。ただしアメリカ軍以外の第三者による遺体確認はされていない[48]
     その後アラビア海に停泊していた空母カール・ヴィンソンに移され、5月2日午前1時10分(EDT)より、同空母の甲板で50分かけて水葬の儀式が執り
     行われた。遺体は洗浄し清められ、白い布で包まれ、あらかじめ用意された祈りの言葉が唱えられ、通訳がそれをアラビア語に翻訳した[49] [50]
     その後、重しをつけられた袋に入れられ、カール・ヴィンソンにある外舷エレベーターから海に投下された[51][52]
   後の情報公開の中では、機械的なエレベーターではなく、板の上に遺体を載せた後に板を傾けて落としたという。なお、この水葬の模様を捉えた映像は公開
     されていない。葬儀の実施については、乗組員のごく一部にしか知らされておらず、艦上で何が行われていたかに気づいている者は少なかった[53]。」

 アメリカ政府は、イスラム教においては遺体を死後24時間以内に埋葬しなければならないが、受け入れ先の土地が見つからなかったとして水葬の正当性を主張、
     一連の儀式はイスラム教の教義や慣習を厳格に守って行ったと発表している[49]。しかしイスラムでは土葬が普通で、水葬されたことには異例と
     イスラム世界からの反発もあり、アル=アズハル大学の指導者タイブ師は「土葬によって死者に敬意を払うべきであり、イスラム教とは相容れない方法」
     と批判した[54]。また本来はビン・ラーディンの出身国であるサウジアラビアに埋葬すべきであったとの声もある[52]
  アメリカ政府の意図として、イスラム過激派などによる遺体の回収や[50]、埋葬された土地が「テロリストの聖地となるのを防ぐため」との指摘もある[51][52]
  ビン・ラーディンとされる頭を撃たれた遺体の映像が一時ネット上で出回ったが、これは後に別人の写真から合成されたものと判明し、米国政府は
     遺体の映像を一切公開しない方針を決定している。

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